他者の歓待〜銭湯民主主義

正月の6日と7日の朝日新聞夕刊(にっぽんの知恵/新春スペシャル)で、鶴見俊輔・高田公理・熊谷真菜の三氏による座談会が掲載されている。
そこでは「銭湯」の効用について三者が歓談しているのだが、銭湯と民主主義の相関に関しては、鶴見の持論である「銭湯民主主義」が展開される。
この鶴見流の「民主主義としての銭湯」については、僕はいぜんにも記したので下記に再録しておく。

pipi姫さまによれば、研究者・原田達さんが雑誌『Becoming』16号に、鶴見俊輔の「言い淀み」を生むもうひとつの要因、「あいまいさ」にも言及し、鶴見俊輔は矛盾するものをそのまま受け入れる思想家だという趣旨のことを書いているそうだが、この「あいまいさ」と「矛盾の受容」は鶴見の方法性というか戦略だと思う。鶴見の言葉に「温泉民主主義」(*「銭湯の民主主義」に訂正します)というのがあるが、これは赤の他人同士が裸で風呂に入り合うことの対等性と可能性を言い当てた、鶴見流のアナーキズムだと思う。
そして矛盾の受容とは、鶴見が矛盾を止揚しない「反-弁証法的態度」を貫いていることを意味していよう。それはまた僕たちが共に生きてゆくためには、ある種の「あいまいさ」への共感と適度の「隙間(アソビ)」が智恵として必要であることを示唆しているようにも思える。だからと言って、(急いで言うが)当然ながら鶴見が矛盾やあいまいさに居直っていることを意味しない。(続く)http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20050928

さきの座談会の中で、鶴見はこの「銭湯民主主義」を「日本から海外へ発信・輸出して、世界の安定に貢献できないだろうか」と提唱しているのだが、この構想には先人がいるとして、次のように石川三四郎を紹介する。

石川三四郎は世界のアナーキスト無政府主義者)が日本に集まり、全員が裸になって政治を論じる会議を開こうと構想していた。一種のユートピア思想ですが、裸で湯に入る風俗を、世界の思想や政治に影響を及ぼす行動様式だと考えていたわけです。(……)風呂に入ることで新たになる皮膚感覚や豊かな気持ちは外国人にも理解されるでしょう。石川三四郎が言うように、裸でともに湯につかっている人と人との間では、面倒な神や理論が威張ることができない。互いに真っ裸で対面することへの違和感も、工夫しだいで克服できると思います。

このように考える鶴見は、人間の悪や暴力性を包み込むことにおいて「他者の歓待」の可能性を唱えているようにも言えるだろう。
だがいっぽうで、それは銭湯に浸かることのできる/できた<他人>同士の対等性の保証であって、<他者>の視線が不在ではないかという批判がありえる。つまりその銭湯に「入れる」ための資格=境界線が、この世界には多く敷かれているのにもかかわらず、そのことが不問に/隠蔽されているという点だ。鶴見じしんはそのことに無自覚ではない。だから「丸裸=無防備」であることを条件にしているが……しかしそれでも<他人>同士による「合意=権利」を生み出す力学は「境界線」を生み出すことになるだろう。そしてそこから排除されたものたち(人間に限定されない)は、それ故に銭湯を否定する<他者>として侵襲してくるかもしれない。銭湯文化を共有している<他人>と、共有しない<他者>との衝突の可能性。それでも<他者>を歓待できるのか/すべきなのか?
そして<他者の脅威>を脅迫的に言い立てる言説に対して、ならば条件付で<よい他者>と<わるい他者>の二重基準に基づいて歓待すべきなのか? だが、<よい/わるい>の価値基準は<他者>にではなく歓待する側の主観/基準であるにすぎない。また<よい他者>だと思って迎い入れても豹変するかもしれないし、その逆もあるだろう。
つまり<他者>の善し悪しは決定不能なのだ。その意味では、私たちは<他者の態度>に宙づりにされた「人質」だと言えるのかもしれない。
人質は無防備である。あるいは無防備であるがゆえに、自らすすんで人質になる決意と覚悟(応答可能性)の倫理性が、無条件の「他者の歓待」であるのかもしれない。だがそれは可能だろうか? 歓待の可能性と不可能性の交響が「歓待のアポリア」の磁場を生み出している。しかしその磁場にこそ、ありうべき歓待の可能性があるとデリダは言っているようだ。
それは、衝迫的な言説に迫られて安直に解くことではない。「歓待のアポリア」を生き得べきこと、それが僕らに到来するチャンスだ! と言い換えてもよい。