「多数決」と「一般意志」について(1)


★追記と訂正(12/16;18:50)★註を追加(12/16;20:50)


有名なリンカーンの言葉「人民の、人民による、人民のための政治」は、「民主主義」の在り方として「人民による民主主義」「人民のための民主主義」に区別されるそうだ。


1. 「人民による民主主義」について考えてみよう。
伊吹文科大臣は昨夕の9時のNHKTVニュースに出演して、「選挙」によって「民意」は反映されているのだから「国会」で「過半数」の支持を得た法案は「民意」を反映していると抗弁した。
この伊吹文科大臣の弁明は、これまでも審議会等で何度も「反復」されたのだが、果たして「代議制」において「多数決」は「民意」を反映しているのか?(伊吹文科大臣は「反復」することにおいて、その「民意」の正統性を根拠づけているようだ。)
「民意」とは何か? ルソー的に言えば「一般意志」か「全体意志」か? 
「代議制」が主権者の「一般意志」を反映していないとしても、だからと言って拙速に否定するのも早計である。
そして「多数決」が正統性をもつとしてその論拠とは? それは背景に「効力(force)としての強制力」によって担保される限りにおいてであろうか。
以上論点提起をして、法哲学的観点から考えてみたい。


2. 「多数決」が正統性(legitimacy)をもつ論拠について。
「多数決」が正統性をもつ根拠は、それほど明らかではないように思えるのだが……。
「多数決」を有効にするためには、そのメンバーが一度はその決定方法を全員一致で同意をしなければならない、とルソーは言う。

その性質上、全会一致の同意を必要とする法は、ただ一つしかない。それは、社会契約でる。(……)社会契約の時に、反対者がいても、彼らの反対は、契約を無効にするものではない。それは、ただ、彼らがその契約に含まれるのを妨げるだけである。彼らは、市民の中の外国人である。」(『社会契約論』p148、岩波文庫

この場合の「市民」とは「主権者」と同義であるから、「社会契約」を構成している主権者は同時に<法主体>でもある。
社会契約は、<法空間>を生み出す原因(根拠)であり、その契約を結び合う利己的個人は遡及的に<法主体>と見なされる。
純粋法学のケルゼンの場合は、法の根拠は「根本法=憲法」が初源であり(それ以上に遡及しない)、そこから自己準拠して法体系が自己組織化されると考えるから、憲法の外部である「社会契約=これは、<法空間内>の契約ではない!」を考慮しない。
因みに「社会契約」を合意するための「合意」とは、「慣習的合意」によってなされるという説がある。
だが「慣習的合意」だとしても、誰と誰が合意するのか。言い換えれば、誰々を合意の相手にするのか/しないのかという「権力の磁場」が前提とされていることに留意しておかなければならない。誰もが誰とでも対等のテーブルに就けるわけではないのだ。

これらのことを前提にルソーの言ったことを変奏すると、「この指とまれ」で仲良しグループができた。誰が「この指とまれ」を発議するかによって、そこに「権力の磁場」が成立する。そしてメンバーが出来た(メンバーに入れて貰えない場合もある)。
次に民主的に「ルール=法」を決める際に「多数決でいいね」と、最初にそのメンバーの「全員一致」で決めた場合、そこでの「多数決」はその仲良しグループの全メンバーには「効力」をもつと言っていることになる。
そして仲良しグループではない「部外者」が反対しても、その「社会契約」は無効にはならないよ、と言っているわけだ。

では次に、その仲良しグループのあるメンバーがある提案に反対して少数派になった場合に、とり得る選択は二通りあるだろう。


(1)「少数派」が「多数派」に従う。
(2)仲良しグループから離脱する。


(2)の選択がなされた場合、「多数決」の効力は「多数派」に対してしかなく、実態は多数派だけによる「全員一致」と同じ効力である。
では、少数派は、なぜ(1)の選択を行うのだろうか? 仲間外れになることの不利益から嫌々ながらも「多数派」に従う。離脱するだけの力量があれば、すでに離脱しているかもしれない。*1
あるいは、端的に言って「多数決」の背後にある「グループとしての強制力=暴力」を恐れて、多数派に「従う」。
(★追記:(3)として、グループ内に留まって「抵抗/サボタージュ」という選択が考えらる。これには初めから「多数決」という手法を認めていない場合と、「多数決」の正統性は認めてもその前提と遣り方を批判している場合とがあるが、後ほど検討しよう。(12/16;18:50)★)


この仲良しグループでの事例は、それぞれの利害に基づく「個別意志」による多数決によって、多数派が少数派を「全体意志」として制したということ、それに対してそのグループから離脱することが困難なゆえに少数派は「従って」いるにすぎないということを示唆している。
その場合に仲良しグループの決定が、その場にいる「部外者=市民の中の外国人」に及ぼす影響を考える必要がある(在日外個人の事例など)が、それは後ほど。


3. ここでルソーが主張した「一般意志」のことを採りあげる。

「なぜ一般意志がつねに正しいのか、またなぜ全部の人が、それぞれの人の幸福をたえず欲するのか? およそ人たるかぎり、このそれぞれの人のという言葉を自分のことと考え、また、全部のために投票する場合にも自分自身のためを考えずにはおられないからでないのか? このことは、次のことを証明する――権利の平等、およびこれから生じる正義の観念は、それぞれの人が自分のことを先にするということから、したがってまた人間の本性から出てくるということ。」(p50、岩波文庫

「一般意志は、それが本当に一般的であるためには、その本質と同様、またその対象においても一般的でなければならぬということ。一般意志は全部の人から生まれ、全部の人に適用されなければならないということである。そして、一般意志は、何らかの個人的な特定の対象に向かうときには、その本来の正しさを失ってしまう。なぜなら、そうした場合にはわれわれは自分に関係ないものについて判断するので、われわれを導く公平についての真の原理を何らもっていないのだから、ということを証明する。」(『社会契約論』p50、岩波文庫

「ある法が人民集会に提出されるとき、人民に問われていることは、正確には、彼らが提案を可決するかということでなくて、それが人民の意志、すなわち、一般意志に一致しているかいないか、ということである。各人は投票によって、それについてのみずからの意見をのべる。だから投票の数を計算すれば、一般意志が表明されるわけである。」(p149〜150、岩波文庫

これを簡単に言えば、「自分を含むみんなにとってよい」と思う個人の判断をみんなの投票によって計れば、その採決の過半数「一般意志」として正当性をもつということを示しているわけだ。
この「みんなにとってよい」と思う判断は、「利己的な意志=個人意志(特殊意志とも訳される)」のみの反映であってはならない。ちなみに、ルソーによれば「全体意志」とは、この「個人意志」を集積したものとされる。
そしてルソーは「正義」の基礎付けとして、「人間の本性」(自然法的発想)から生まれる「一般意志は間違わない=正しい」と断言する。しかし「多数決」による採決がメンバーに効力をもたらすという事態と、それが「一般意志として正しい/正しい一般意志」であるということは論理的には保証されない。正統性(legitimacy)と正当性(rightness)の違い
つまり「多数決」という「民主的決定」によって、「間違い」を犯す可能性は常に既ににあるということだ。なお、ここでは「民主的決定」に至る「討議倫理学」には言及していないが、後に触れることになるだろう。


ところで「みんなって誰だ?」、それこそが問われなくてはならない。ルソーの「みんな」は「市民」に限られているが、ここで「市民の中の外国人」あるいは「未来の他者」のことも考慮しなくてはならない。今日的にはプレカリアートも!


以上は、「直接民主主義」に関する過渡的素描(決定稿ではないので、追加記述については別途明記)であるが、「間接民主主義=代議制」については、後日論ずる予定。

★マックスさんの「私的総括」で、上記の拙論考に言及してくださっているので、ぜひお読みください。→http://sitebites.homeip.net/blog/202

*1:孫引きだが、法学者・木村亀二によれば「(原始集団にあっては)意見の反対は人と人との反目であった」が、「この人と人との反目がある目的に対する反対に代わって行くことに依って多数決の原理が成立した。」「少数者にとって多数決は集団に属することの利益が多数に抵抗することより生じる損失より大なりと考へられる限りに於いて意味が在るのであつて、この利益の限界が多数の支配に依つて超へられる時に初めて少数者の熟慮的服従が再び実力化して死活を争ふ抵抗に変じて来るのである。」(「多数決原理の省察」より。)