市野川容孝さんのブログより


僕も引用しようと思っていた市野川さんのブログが、先に畏友・野原燐さんのブログでも紹介されている(http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061121)。僕はこのことを踏まえて、下の「教育基本法改悪反対アジ演説テンプレート集」のエントリーで、「議会外活動」の必要性を書いたのだった。

■議会主義の政治が正義から大幅に外れていく可能性
【5】その延長線上で、あらためて確認すべきなのは、「議会主義」の限界と欠陥でしょう。1933年に、ナチは普通選挙によって第1党になり、政権の座についた。しかも、1919年からドイツでは女性参政権が認められているわけで、男たちも、女たちも、ヒトラーに一票を投じた。このことの意味を、どう考えるべきなのか。

 「教育基本法」の改「正」が、今まさに日本の国会を通過しつつある。それを可能にしているのも、普通選挙であり、議会主義です。さらには、改憲のための国民投票も、秒読み段階に入っているように私には思えます。そこで、どのような結論が出されることになるのか。──私たちは今、一体、何を考えるべきなのか?

http://d.hatena.ne.jp/Ichinokawa/20061120

社会 (思考のフロンティア)

社会 (思考のフロンティア)

★追記★
ヒットラー普通選挙によって登場したのは有名な話だが、それ以前にルイ・ボナパルト普通選挙によって登場してきたという歴史的事実がある。そのことの過程を分析したのが、K・マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』である。
僕らの勉強会「哲学的腹ぺこ塾」で、そのマルクスのテキストを取り挙げたことがある。その時のKさんのレジュメから下記に引用する。

トランスクリティーク』(柄各行人)から

《議会制が独裁者を生み出す》
マルクスが注目したのは、こうした過程が議会制(代表制)の中で生じたということである。
 二月革命普通選挙をもたらした。ボナバルトの皇帝就任にいたる過程は、ブルジョア議会制の中でのみ生じたのである。
★民主派の……このように「代表するもの」と「代表されるもの」の関係が、本来的に恣意的であるがゆえに、産業ブルジョアジーもその他の階級ももともとの「代表するもの」を見すてて、ボナパルトを選ぶということがありえたのである。
「貨幣が一商品であることを見ることはたやすいが、問題は、商品がなぜいかにして貨幣となるかを明らかにすることだ」(『資本論』)……彼がボナパルトについていうのも同じことだ。……ユゴーのような批判を幾度くりかえしても、それは貨幣がただの紙きれだというのと同じく、何の批判にもならない.
普通選挙において初めて政治的舞台に登場した農民はボナパルトを支持した。しかし、彼らはボナパルトを自らの代表者として支持したというよりも、いわば「皇帝」として支持したのである。……→ヒットラー政権はワイマール体制の中から出現。日本の天皇ファシズム普通選挙(1925年)の後に台頭。
マルクスは代表制がそれ自体において二重的であることを指摘。
議会     ……真理は他者の合意による暫定的な仮説でしかない(アングロサクソン的)
        ……討論を通じた合意によって決定して行こうとする(自由主義的)
大統領(直接投票)……真理をア・プリオリな明証性から演繹できる(デカルト的)
        ……「一般意志」は諸階級の利益を超えた存在によって代表される(民主主義的)
ボナパルトは、共和党が選挙民を制限しようとしたのに対して普通選挙を唱えて、「国民の代表者」として人気を博し、また、のちにヒトラーがそうしたように幾度か国民投票に訴えた)

J・J・ルソーは『社会契約論』の中で「一般意志は誤らない」と書いているが、歴史的事実は幾たびかの「過ち」をもたらしている。★追記★しかしこの場合の「一般意志」とは、「個別意志」の集積としての「全体意志」が「一般意志」を仮装してしまったのが、歴史の実像だったのかもしれない。その意味において「過った」とも言える。

参院での多数決という「一般意志」の代表によって、教育基本法が「改正」されたならば、それは「議会主義」の限界と欠陥を如実に表象することになる。というか、これまでもそうであった!★追記★いや、いまだかつて「議会」では、ルソー的な意味での「一般意志」は発現していないというべきだろう。
だからこそ僕たちによる、「議会外活動」はその限界と欠陥を乗り越えるために(議会主義の救出?)、必要であり欠かせない活動なのだ! と言って置く。