家族葬

一昨日、N女王の祖母が享年94歳で亡くなった。
彼女(N女王)は2日の日にその祖母に正月挨拶で会っており、元気そうにしていたそうだったが……。
その早朝に電話があった。瞬間的に僕は不幸な知らせだろうと直感した。この時期の早朝や深夜の電話には、いつもドキッとさせられる。
前日まで元気だった祖母は、寝入ったまま苦しむこともなく安らかに旅だったようだ。たぶん夜のうちに緩慢に心拍が衰えてゆき、本人も夢を見るような気持ちで「すうっと」と魂が抜けていったのかもしれない。
介護していた叔母が朝起きて気づいたときは、すでに逝ったあとだった。
(亡くなった人の魂を呼び戻すという儀式のあるシーンの映画を想起したが、タイトルが思い出せない。主演は韓国人の男性だったと思う。)
それでその夕方、僕は神戸の自宅で行われた、お通夜に出かけた。
清楚だが鮮やかな花々に囲まれた祭壇は、祖母の人生の卒業を祝福しているようですらあった。ああこういう祭壇はいいなあと心底思った。それは94歳という大往生を遂げたからでもあったが……。
そして身内だけのお通夜は、酒を酌み交わしながら和やかに暮れた。
死ぬ瞬間―死とその過程について
ところで「生理としての死」は緩慢に進んでゆくので、事後的にしか死の特異点を想定するしかない。心臓死や脳死は一臓器の死にすぎなく、細胞のひとつひとつのモナドが閉じてゆき総体としての身体の死後硬直が、<ある>という現在形から<もの>という状態に変容したことを表象しているように思える。
つまり僕らが生体に対する存在感とは違う異変に気づくのは、<ある>という状態の変化に対応しているように思われる。
しかし「人としての死」を受容するのは、もっと遅いだろう。もちろん受容の個人差はあるにしても、キューブラー・ロスの五段階説(『死ぬ瞬間』)というのが有名だ。