Web評論誌『コーラ』29号

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 ●新連載<前近代を再発掘する>第4回●
  浪人的なものをめぐって
  岡田有生・広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-5.html

  ■高時天狗舞
 『太平記』の「相模入道田楽を好む事」(第五巻4)は、田楽に耽溺する得宗
 北条高時を印象的に描いている。
  当時、京都で田楽が大流行だと聞いた高時は、田楽の一座を鎌倉に呼んで、
 これに夢中になった。ある晩、酔った高時が自ら田楽舞を踊っていると、どこ
 からか十数名の田楽一座の者があらわれて、高時とともに舞い歌った。これが
 実に面白かった。しばらくしてから歌の調子が変わって「天王寺の妖霊星を見
 ばや」と歌いはやした。高時の屋敷に仕えていた女中が障子の穴からのぞいて
 みると……。(以下、Webに続く)
 
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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第39章 和歌三態の説、貫之・俊成編
  中原紀生
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-39.html

 ■定家と虚なるもの、あるいは「かげもなし」の余韻
  俊成自讃の「おもて歌」が、歌の本質を「広がり」にではなく「深み」にお
 いて見る中世詩歌の特徴を自覚的・予感的にあらわしていた、と大岡信氏が指
 摘する「夕されば野べの秋風身にしみて鶉なくなりふかくさの里」であったと
 して、それでは、定家の代表歌はなんだろうか、それは、武野紹鴎が佗び茶の
 湯の心をこの歌に見出した、と「南方録・覚書」が伝える「見わたせば花も紅
 葉もなかりけりうらのとまやの秋のゆふくれ」なのか、いや、百人一首に撰入
 された「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」こそ文
 字通りの自撰歌ではないか、いやいや、それは「歌織物」(林直道)もしくは
 「グラフィック・アナグラム」(丸山圭三郎)を編集する企みゆえの撰歌だっ
 たかもしれない、などと自問自答しているうち、成立年及び作者はともに未詳
 ながら、後鳥羽院から西行法師まで十七人の新古今歌人が各々十首ずつ秀歌を
 自撰したとされる「自讃歌」なる文献があることを知り、さっそく検索し定家
 の部を拾い読みしたところ、掲載順が価値の序列をあらわしているわけではな
 いにせよ、第一の「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるる横雲のそら」と
 第三の「年もへぬいのるちきりはゝつせ山おのへのかねのよそのゆふくれ」の
 間に掲げられていたのが、(以下、Webに続く)

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 ●連載「新・玩物草紙」●
  太陽帆走/坂道 
  寺田 操

http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-33.html
  鳥のように自由に大空を飛びたいという夢は、大量輸送の飛行機から小さな
 プロベラ機、気球、スカイダイビングと実現されてきた。それだけでは物足り
 ない。空飛ぶ絨毯やスーパーマンのように人の身体が赤いマントをひるがえし
 て空を泳ぐように、飛びたいと夢を追っているうちに空飛ぶ「ウイングスー 
 ツ」の登場だ。2016年1月4日の某新聞記事には富士山近くを飛行する 
 ウィングスーツが映っていた。両手両足を広げて飛ぶ姿は気持ちよさそうだ。
 垂直に落花するスカイダイビングと違って水平飛行。この空飛ぶスーツは  
 1990年、フィンランドの企業が開発し、一着約20万円。小型飛行機に乗
 りこみ、タイミングを計り空へと飛びだす。鳥たちはお仲間が増えたと歓迎す
 るだろうか、それとも奇怪な新種だと目をそらすだろうか。
 (以下、Webに続く)

Web評論誌『コーラ』30号

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  ●寄稿●
  マイノリティについて語る倫理
  ――「子どもの貧困」を一例として

  田中佑弥
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/kikou-30.html

  本稿を書こうと思った契機は、「新貧乏物語」の捏造である。「子どもの貧
 困」をめぐる昨今の事象を振り返りながら、まとまりのない文章で恐縮ではあ
 るが、考えたことを書き記したい。
  捏造があった「新貧乏物語」は『中日新聞』による2016年の連載記事であ 
 る。『中日新聞』の検証記事(1)によれば、以下のような捏造があった。

   五月十七日付の名古屋本社版朝刊の連載一回目「10歳 パンを売り歩く」
  は、母親がパンの移動販売で生計を立てる家庭の話。写真は、仕事を手伝う
  少年の後ろ姿だったが、実際の販売現場ではない場所での撮影を、取材班の
  男性記者(29)がカメラマンに指示していた。少年が「『パンを買ってくだ
  さい』とお願いしながら、知らない人が住むマンションを訪ね歩く」のキャ
  プション(説明)付きで掲載された。
   撮影当日、少年がパンを訪問販売する場面の撮影は無理だと判明。少年に
  関係者宅の前に立ってもらい、記者自らが中から玄関ドアを開けたシーンを
  カメラマンに撮らせた。

  また、五月十九日付朝刊の連載三回目「病父 絵の具800円重く」でも記者
 は、「貧しくて大変な状態だというエピソードが足りないと思い、想像して話
 をつくった」。
  報道は正確でなければならないが、本稿で考察したいことはそういうことで
 はない。(以下、Webに続く)
 
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 ●連載<前近代を再発掘する>第6回●
  地獄は一定すみかぞかし

  岡田有生・広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-6.html

  前置き
  黒猫編集長にさんざんご迷惑をかけ、岡田さんに無理やりつきあってもらっ
 て、脱線を繰り返しながら続けてきたこの企画だが、『太平記』を一通り読み
 終わったので、今回で一区切りとしたい。(広坂)

  天狗太平記(広坂朋信)
  ■鎌倉幕府滅亡の予兆
 『太平記』にはしばしば天狗が登場する。天狗は、歴史物語としての『太平 
 記』の前近代性を際立たせている特徴の一つだろう。
  まず前回取り上げた「相模入道田楽を好む事」(第五巻4)から見ていこ 
 う。
  田楽に夢中になった北条高時が、ある晩、酔って自ら田楽舞を踊っている 
 と、どこからか十数名の田楽一座の者があらわれて、「天王寺の妖霊星を見ば
 や」と歌いはやした。高時の屋敷に仕えていた女中が障子の穴からのぞいてみ
 ると、踊り手たちは、あるものは口ばしが曲がり、あるものは背に翼をはやし
 た山伏姿、つまり天狗の姿であった。
  この場面をどう受けとめるか。高時の舅が駆けつけたときには、怪しいもの
 どもは姿を消していた。畳の上に鳥獣の足跡が残っていたことから、天狗でも
 集まっていたのだろうということになったが、当事者である高時は酔いつぶれ
 ていたので、目撃者は、家政婦は見たよろしく障子の穴からのぞいた女中一人
 だけである。(以下、Webに続く)
 
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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第40章 和歌三態の説、定家編─イマジナル・象・フィールド

  中原紀生
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-40.html

  ■音象、ネイロ、世界の影
  前章の最後の節で、パンタスマ(虚象)の音楽的効果について簡単にふれま
 した。今回はその補足、というかやや蛇足めいた話題から始めたいと思いま 
 す。
  大森荘蔵著『物と心』に収められた「無心の言葉」の冒頭に、時枝誠記の著
 書(『言語本質論』(『時枝誠記博士論文集』1))からの孫引きで、平田篤
 胤の次の言葉が紹介されています。「物あれば必ず象あり。象あれば必ず目に
 映る。目に映れば必ず情に思う。情に思えば必ず声に出す。其声や必ず其の見
 るものの形象[アリカタ]に因りて其の形象なる声あり。此を音象[ネイロ]
 と云う」(「古史本辞経」、ちくま学芸文庫『物と心』98頁)。
  いま手元にある『国語学原論』総論第七節「言語構成観より言語過程観へ」
 の関連する箇所を拾い読みしてみると、時枝はそこで、「特定の象徴音を除い
 ては、音声は何等思想内容と本質的合同を示さない。これを合同と考えるの 
 は、音義的考[かんがえ]である。」と書き、先の一文を例示したうえ、「音
 声は聴者に於いて習慣的に意味に聯合するだけであって、それ自身何等意味内
 容を持たぬ生理的物理的継起過程である。音が意味を喚起するという事実か 
 ら、音が意味内容を持っていると解するのは、常識的にのみ許せることであ 
 る。」と書いています(岩波文庫国語学原論(上)』108頁)。
 (以下、Webに続く)

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 ●連載「新・玩物草紙」●
  黒岩涙香/地 図

  寺田 操
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-34.html

  黒岩涙香
  5月の大型連休のさなか、「黒岩涙香」の文字をみつけて胸がざわついた。
 竹本健治『涙香迷宮』講談社2016・3・9)の新刊。探偵小説家・涙香 
 (1862〜1920)が主人公では?それとも評伝的な小説なのか?
  1980年代、黒岩涙香の翻案探偵小説『幽霊塔』『鉄仮面』『死美人』 
 (旺文社文庫)などを読んだ覚えがある。《雪は粉々と降りしきりて巴里の 
 町々は銀を敷きしに異ならず、ただ一面の白皚々を踏み破りたる靴の痕だも見
 えず、夜はすでに草木も眠るちょう丑満を過ぎ午前三時にも間近ければ》…書
 き出しから怪異の時間に引き込まれた。警官2人の警邏中、黒帽子に長外套の
 襟をあげて顔をかくす紳士が下僕を従えて歩いてきた。下僕の背には重たげな
 籠。なかには絶世の美女の死体。肋骨のあいだにスペードのクイーンの骨牌
 (カルタ)の札が突き刺さり…。フランスの作家ボアゴベイ原作『死美人』
 だ。(以下、Webに続く)

              • <転載歓迎>は、ここまで。------------------------------------

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 ●新連載<前近代を再発掘する>第4回●
  浪人的なものをめぐって
  岡田有生・広坂朋信
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  ■高時天狗舞
 『太平記』の「相模入道田楽を好む事」(第五巻4)は、田楽に耽溺する得宗
 北条高時を印象的に描いている。
  当時、京都で田楽が大流行だと聞いた高時は、田楽の一座を鎌倉に呼んで、
 これに夢中になった。ある晩、酔った高時が自ら田楽舞を踊っていると、どこ
 からか十数名の田楽一座の者があらわれて、高時とともに舞い歌った。これが
 実に面白かった。しばらくしてから歌の調子が変わって「天王寺の妖霊星を見
 ばや」と歌いはやした。高時の屋敷に仕えていた女中が障子の穴からのぞいて
 みると……。(以下、Webに続く)
 
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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第39章 和歌三態の説、貫之・俊成編
  中原紀生
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-39.html

 ■定家と虚なるもの、あるいは「かげもなし」の余韻
  俊成自讃の「おもて歌」が、歌の本質を「広がり」にではなく「深み」にお
 いて見る中世詩歌の特徴を自覚的・予感的にあらわしていた、と大岡信氏が指
 摘する「夕されば野べの秋風身にしみて鶉なくなりふかくさの里」であったと
 して、それでは、定家の代表歌はなんだろうか、それは、武野紹鴎が佗び茶の
 湯の心をこの歌に見出した、と「南方録・覚書」が伝える「見わたせば花も紅
 葉もなかりけりうらのとまやの秋のゆふくれ」なのか、いや、百人一首に撰入
 された「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」こそ文
 字通りの自撰歌ではないか、いやいや、それは「歌織物」(林直道)もしくは
 「グラフィック・アナグラム」(丸山圭三郎)を編集する企みゆえの撰歌だっ
 たかもしれない、などと自問自答しているうち、成立年及び作者はともに未詳
 ながら、後鳥羽院から西行法師まで十七人の新古今歌人が各々十首ずつ秀歌を
 自撰したとされる「自讃歌」なる文献があることを知り、さっそく検索し定家
 の部を拾い読みしたところ、掲載順が価値の序列をあらわしているわけではな
 いにせよ、第一の「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるる横雲のそら」と
 第三の「年もへぬいのるちきりはゝつせ山おのへのかねのよそのゆふくれ」の
 間に掲げられていたのが、(以下、Webに続く)

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 ●連載「新・玩物草紙」●
  太陽帆走/坂道 
  寺田 操

http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-33.html
  鳥のように自由に大空を飛びたいという夢は、大量輸送の飛行機から小さな
 プロベラ機、気球、スカイダイビングと実現されてきた。それだけでは物足り
 ない。空飛ぶ絨毯やスーパーマンのように人の身体が赤いマントをひるがえし
 て空を泳ぐように、飛びたいと夢を追っているうちに空飛ぶ「ウイングスー 
 ツ」の登場だ。2016年1月4日の某新聞記事には富士山近くを飛行する 
 ウィングスーツが映っていた。両手両足を広げて飛ぶ姿は気持ちよさそうだ。
 垂直に落花するスカイダイビングと違って水平飛行。この空飛ぶスーツは  
 1990年、フィンランドの企業が開発し、一着約20万円。小型飛行機に乗
 りこみ、タイミングを計り空へと飛びだす。鳥たちはお仲間が増えたと歓迎す
 るだろうか、それとも奇怪な新種だと目をそらすだろうか。
 (以下、Webに続く)

Web評論誌『コーラ』28号のご案内

予定通り、2016年4月15日に発行いたしました。

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 ●新連載<前近代を再発掘する>第4回●
  浪人的なものをめぐって
  岡田有生・広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-4.html

  ■北条高時の腹切りやぐら
  神奈川県鎌倉市には、高時の腹切りやぐらと呼ばれる場所がある。言い伝え
 によれば、元弘三年(1333)、後醍醐方についた新田義貞の軍勢に攻め込まれ
 た北条一族八七四人は、東勝寺に立てこもり、もはやこれまでと自害したその
 場所だとされている。かつては心霊スポットとして知られていたが、専門家の
 調査によれば大量の人骨が埋まっているということはなかったそうだ(河野眞
 知郎『中世都市鎌倉』講談社学術文庫)。遺体は別の場所に埋葬されたのかも
 しれない。(以下、Webに続く)
 
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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第38章 和歌三態の説、貫之・俊成編
  中原紀生
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-38.html

  貫之の歌論や貫之が詠んだ歌の世界を、俊成や定家のそれらと比較対照し、
 その実質を一言で言い表わす言葉がもしあるとすれば、それは「像」(イマー
 ジュ)ではないか。そして、俊成の場合であれば「喩」(フィギュール)が、
 定家ならば「虚象」(パンタスマ、フランス語表記に平仄をあわせるなら、 
 ファントームもしくはミラージュ)という語が、それぞれの歌論と歌の世界の
 特質を言い当て、他との感触の違いを際立たせる言葉としてふさわしいのでは
 ないか。吉本隆明の言語表現論の眼目である像と喩の理論をめぐって思案をめ
 ぐらせているうち、そんなことを考えるようになりました。
 (以下、Webに続く)

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 ●連載「新・玩物草紙」●
  澁澤龍彦の玩物草紙/動物園
  寺田 操
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-18.html

  連載の「新・玩物草紙」(旧・日々雑読)をはじめるきっかけになったの 
 は、澁澤龍彦『玩物草紙』(朝日新聞社/1979)だ。「私が興味を持つ宇
 宙は私自身であり、私が目をやるのは私自身の肉体というミクロコスモスであ
 る」という17世紀イギリスの名エッセイストであるトマス・ブラウンを文中
 で引用しながら展開された20篇の草紙。澁澤自身の幼年時代の想い出や書物
 の数々から紡ぎだされた《精神も肉体もふくめた私自身というミクロコスモス
 に関する、一種のコスモグラフィー》は、語り口の柔らかさもあり、澁澤の博
 物誌的な書物とは少しばかり趣が違っていた。父に聞かされたハレー彗星、4
 歳まで住んでいた町の沼のほとりでの怖い錯誤記憶、1歳3ケ月なのにツェッ
 ペリン伯号を眺めた記憶、父の金のカフスボタンを呑んでしまった事件などが
 印象的だった。草紙の挿画は加山又造、装幀は栃折久美子。当時、加山又造
 挿画を真似してイラストを何枚も描いた。(以下、Webに続く)

Web評論誌『コーラ』27号のご案内

今年もあと半月ですね。夏を過ぎてからの時間が早く感じられる今日この頃です。
予定通り、2015年12月15日に発行いたしました。
ぜひ、ご高覧ください。

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 ●新連載<前近代を再発掘する>第3回●
  回帰する『太平記』あるいは歴史と暴力
  岡田有生・広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-3.html

  なぜ『太平記』か(広坂朋信)
  『太平記』を読んでみようと思い立ったのは、なにも岩波文庫版の刊行が始
 まったからというだけではない。これまで花田清輝が『近代の超克』などで提
 唱した「前近代的なものを否定的媒介にして、近代的なものをこえようとす 
 る」アイデアをめぐって議論してきた。日本の前近代は古代から幕末までの長
 い歴史があるが、生活や文化の面で現代とある程度までの連続性のある時代は
 室町時代からだとされている。例えば山崎正和は、生け花、茶の湯連歌、水
 墨画、能、狂言、床の間、座敷、醤油、砂糖、饅頭、納豆、豆腐を列挙して、
 室町時代が「少なくとも日本文化の伝統の半ば近くを創造した」としている 
 (山崎正和『室町記』講談社文庫)。「伝統の半ば近く」というところが肝要
 であって、もしこれが「伝統のすべて」であれば、それは現代にあまりにも近
 すぎて「否定的媒介」とはならない。江戸時代、それも化政期以降の都市文化
 を取り上げると、現代にも通じるところがたやすく見つかるためにパースペク
 ティブを見誤ることになりかねないのはそのためだ。逆に、平安時代の王朝文
 化はあまりに浮世離れしているように見える。その点、室町時代は現代に通じ
 るものがありながら違うところは違うので「否定的媒介」として取り上げるに
 はなかなか適任だろう。(以下、Webに続く)
 
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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第36章 像と喩の彼岸─和歌のメカニスム5
  第37章 続・像と喩の彼岸─和歌のメカニスム5
  中原紀生
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-36.html
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-37.html

  ■言語芸術論の構図をめぐる試行的考察(Ver.2)
   前章の末尾に、吉本隆明の芸術言語原論(言語の理論)を、X・Y・Zの
 三本の座標軸に関係づけて概観したラフ・スケッチを掲げました。それは製作
 者自身、得心がいっているわけではない難点だらけの、荒削りな試作品でしか
 ないものでした。その後、像と喩にもとづく表現の理論と三基軸との関係につ
 いてあれこれ考えをめぐらせ、そこに、吉本表現論における第三の要素(であ
 り、かつ、韻律・撰択・転換・喩につづく第五の表現段階)であるところの 
 「パラ・イメージ」の概念をどう位置づけたものかと思い悩み、そのあげく、
 (あいかわらず、意味や価値といった言語の属性をうまく拾いあげることがで
 きていませんが)、第二の試作品をこしらえてみたので、その概略(という 
 か、骨格と若干の素材)を以下に記しておきます。(以下、Webに続く)

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 ●連載「新・玩物草紙」●
  長田 弘の詩は/御伽草紙
  寺田 操
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-17.html

  五月十日、夜のNHKニュースで長田 弘の訃報。本棚から『記憶のつくり
 方』(朝日文庫/2012・3・30)を取り出して開いてみた。「鳥」「最
 初の友人」が印象に残っている。自分の思想や哲学を特定の領域だけで伝達・
 自足するのではなく、広範囲の読者へレベルを下げずに発信できる詩人であっ
 た。「肩車」冒頭から。
 《肩車が好きだった。父によくせがんだ。背をむけて、/父が屈みこむ。わた
 しは父の頭に手をしっかりのせて、/両脚を肩に掛ける。気をつけなければな
 らないのは立ち/あがるとき。わずかに父の両肩のバランスが崩れる。そ/の
 バランスの崩れをうまくしのがねばならない。立ちあ/がってしまえば、あと
 は大丈夫だ。わたしはもう誰より/も高いところにいる。わたしは巨人だ。 
 ちっちゃな巨人/だ。わたしの見ているものはほかの誰にも見えないもの/ 
 だ。父さえ見ることのできないものだ。》 (以下、Webに続く)

Web評論誌『コーラ』26号のご案内

予定通り、8月15日の「敗戦記念日」に刊行いたしました。
ご高覧いただけますと、幸いです。

ところで、安倍シンゾーの「70年談話」は周到に主語を曖昧にして、安倍の「本心」を隠しながら、周りがうるさいからとりあえずは「侵略」「植民地」「お詫び」「反省」のキーワードを盛り込んで、哀悼の意も表しましたから、文句ないでしょう? と言わんばかりのある意味傲慢な内容でしたね。

それでも安倍の本心が出ていた箇所は、先の戦争と無関係な子どもたちに「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」というフレーズに表れていました。しかし、問われるべきは集合責任としての政治責任なのですから、戦後の日本が政治責任を否認しないできっちり果たすことのほうが先決であり、むしろ宿命を背負わせているのは阿倍シンゾーらの歴史修正主義者ににあると言わねばならないでしょう。

 70年談話の全文は以下のサイトで読めます(外務省のHP)。
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html

PS:今朝の朝日新聞の「社説:戦後70年の安倍談話 何のために出したのか」は痛烈なな安倍談話批判でした。この間迷走していた同紙にしては、毅然としていましたね。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11916594.html

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 ●特別寄稿●
  旅行記のようなもの──サハリン
  加藤正太郎
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/kikou-26.html
 
 極右勢力の議席独占
  昨年(2011年)12月に行われた衆議院総選挙の直前に私は、朝日新聞大阪府
 版に掲載されていた、ある奇妙なアンケート結果を見たのである。それは、大
 阪府選挙区の全候補者に対して行われたもので、もちろん他に「原発廃止」や
 「消費税増税」や「TPP参加」に対する賛否を問う項目もあったのではある
 が、私の目に飛び込んできたのは、ロシア、中国、韓国、北朝鮮に対する「親
 しみ」を問う項目なのであった。そしてそこには、「ある」「どちらともいえ
 ない」「ない」という回答が用意されており、候補者ごとにその結果が○△×
 という記号で示されていたのである。実をいえば私は、「親しみ」という言葉
 に拒絶反応を示してしまい、熟読することもせず、また切り抜きもしなかった
 ので、その詳細についての記憶は極めて曖昧なままなのである。つまり、もし
 かしたら対象に北朝鮮はなかったかもしれず(「親しみがない」のは当然のこ
 ととされているから)、代わりに「米国」があったかもしれないといったあり
 さまなのであるが、しかしこのことは、私が思わず目を背けてしまった理由に
 は何ら影響しないと思うのである。私は次のように思ったのであった。

 (1)国会議員候補に「他国への親しみ」の度合いなど聞いて何の意味がある
 のだろうか。私たちが知りたいはずのものは、世界平和についての理念や思想
 であり、「親しみ」の「ある・なし」などによって外交方針が左右されること
 があったとしたら、それはむしろ危険なことではないだろうか。
 (以下、Webに続く)

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 ●新連載<前近代を再発掘する>第2回●
  犠牲と平和――河原宏『日本人の「戦争」』から
  岡田有生・広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-2.html

  古典の誤用(広坂朋信)
  河原宏『日本人の「戦争」』(講談社学術文庫)の初めの章「日本人の「戦
  争」」は、日本の古典と明治以降の日本人の歴史意識との関係、特にアジア
 太平洋戦争の時代に焦点を当てて、あの戦争の「古典依存的性格」を指摘して
 いる。もっとも、その冒頭で、ラフカディオ・ハーン小泉八雲)の観察に依
 拠して日本人一般の意識を規定している点には賛同できないが、古典の誤用を
 指摘している箇所は興味深い。
  例えば、「海行かば」は荘重、悲壮な曲として知られるが、大伴家持による
 その原歌は「黄金の産出を喜ぶ祝祭歌の一部だった」。ところがこの古歌を近
 代日本が利用したところ「大いなる歓びを歌った原歌が予想もしなかった葬送
 曲、それも日本自体の葬送曲を奏でてしまった」という指摘は面白い。   
 (以下、Webに続く)
 
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 ●連載〈心霊現象の解釈学〉第8回
  「不気味なもの」の向こう側へ
  広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-8.html

不気味なもの
  このわがまま勝手な連載で、私は何度かフロイトの有名なエッセイ『不気味
 なもの』に言及しようとしながら、そのたびにためらってきた。それは私がこ
 の知の巨人の理論に通じていないからということももちろんだが、怪異につい
 ての心理学的・精神医学的アプローチに懐疑的だからでもある。
  フロイト自身の言葉によれば、『不気味なもの』の「本質的な内容」は次の
 とおりである。 (以下、Webに続く)
 
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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第34章 続・自己表出と指示表出の織物─和歌のメカニス4
  第35章 続々・自己表出と指示表出の織物─和歌のメカニス4
  中原紀生
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-34.html
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-35.html

  ■生起と喩のメカニズム、再説
  中沢新一氏によって、吉本隆明の「自己表出」と「指示表出」に重ねあわせ
 て論じられた「生起」と「喩のメカニズム」について、いま少し、こだわりた
 いと思います。
  まず、生起について。
  中沢氏自身が書いていたように、この語は、ハイデガーの「エアアイグニス
 [Ereignis]」に由来します。一般には「事件、出来事」と訳され、英語では
 「イベント[event]」、フランス語では、(たとえば、丸山圭三郎が『言葉
 と無意識』で、「人間は、言葉をもったために生じたカオスへの恐怖と、それ
 をまた言葉によって意味化する快楽に生きる。この恐ろしさとめくるめく喜び
 こそ、ルドルフ・オットーのいう〈ヌミノーゼ的体験〉であり、形を絶えず突
 き崩す動きと、動きを絶えず形とする力の舞台であり、そこで起きる〈出来 
 事〉[エヴェヌマン]とは、同時に形であり動きであると言ってよい。」と書
 いていた、その)「エヴェヌマン[e've'nement]」にあたる語です。
 (以下、Webに続く)

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 ●連載「新・玩物草紙」●
  家は……/消滅可能都市?
  寺田 操
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-16.html

  家は……
  子供のころ住んでいた天窓のある家を夢にみることがある。裏庭から物干し
 台への階段を上り、瓦屋根に這いつくばって天窓から真下をのぞくと、台所で
 は割烹着をつけた母が料理していた。傍らでつまみ食いをしていた弟が天窓を
 見上げ、ここまでおいでと、勝ち誇った顔をして私を悔しがらせた。いま居住
 する高層マンションでは体験できない不思議が幼い日の家には満ちていた。
 《東京の街を車で通りながら、ときおり、はっと息をとめさせるものがある。
 家だ。ふしぎな家を見るのだ。》 (以下、Webに続く)

Web評論誌『コーラ』25号のご案内


予定通り、2015年4月15日に発行いたしました。
ご高覧いただけますと、幸いです。
さて、安倍晋三政権はますます憲法9条の拡大解釈(解釈改憲)に邁進、過日の報道では国会の事前承認も得ずに「自衛隊」の海外派遣を行おうと日米で画策している模様です。
今秋あたりには、いよいよ憲法「改正」の一手を打ってくるでしょう。
それに対応して当局によるマスコミ等への「報道規制」の圧力も増加していくでしょうが(すでにかなりの圧力がかけられ、すでに右傾化しているとも言えますが)、彼らは果たしてどこまで持ち堪えられるのでしょうか?
本誌は、今号より「戦後レジームからの脱却」などというイカサマの「近代の超克」を批判する連載を開始します。

 ■■■Web評論誌『コーラ』25号のご案内(転載歓迎)■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/index.html
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 ●新連載<前近代を再発掘する>第1回●
  花田清輝の「近代の超克」について

  岡田有生・広坂朋信

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-1.html
  私たち(岡田有生と広坂朋信)は、「近代の超克」と呼ばれるテーマを再検
 討してみたいと思い立った。再検討というのは、昭和戦中期になされた「近代
 の超克」座談会とその周辺の思想については、先人たちがそれぞれの視点から
 詳細に検討した優れた成果がすでにあるからだ。
 たとえば、竹内好『近代の超克』(筑摩書房)、廣松渉『〈近代の超克〉 
 論』(朝日出版社講談社学術文庫)、子安宣邦『「近代の超克」とは何か』
 (青土社)があり、最近ではハリー・ハルトゥーニアンの大著『近代による超
 克』(岩波書店)も訳された。私たちには、これら大家たちによる思想史研究
 に新しい論点を付け加えようという野心はない。  
  私たちの関心は「近代の超克」と呼ばれるテーマが私たちに問いかけてくる
 ものにどうこたえるかということに尽きる。具体的には、前近代の文化や反近
 代の思想のなかに、解釈的に再構成されたものとしてではあれ、ある種の近代
 批判の契機を掘り起こすことで、「近代の超克」と僭称される悪しき日本型近
 代主義の運動に対抗していくことは可能か? この課題は「戦後レジームから
 の脱却」などというイカサマの「近代の超克」がのさばっている今、取り組む
 にあたいするものだと信じる。(以下、Webに続く)
 
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 ●書評●
  従軍慰安婦問題の本質を名指すこと
  『慰安婦」問題の本質――公娼制度と日本人「慰安婦」の不可視化』
   (白澤社)
  
  野原 燐

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/syohyou-25.html
  慰安婦問題の原点は、1991年8月の韓国での金学順さんのカミングアウ
 トにある。藤目ゆきのような各国のフェミニストだけでなく、当の元「従軍慰
 安婦」当事者にもその衝撃は伝わった。フィリピンではある女性(ロラ・ロサ
 さん)がカミングアウトした。藤目は「感激してロラ・ロサに会いに行き、そ
 の後三年をかけて自伝の執筆を手伝い、一九九五年に『ある日本軍「慰安婦
 の回想――フィリピンの現代史を生きて』(岩波書店)を出版した。」(p4)
 私が藤目の名前を知ったのは図書館でこの本を借りて読んだからだ。もうずい
 ぶん前のことだ。従軍慰安婦問題というと、韓国人元慰安婦がクローズアップ
 されることが多いが、フィリピンやインドネシアなどの状況は、韓国人の場合
 ともかなり違い、システム化された慰安婦制度からはみ出る分、より露骨な人
 権侵害が多いことを、知ることができる。(以下、Webに続く)

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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第33章 自己表出と指示表出の織物─和歌のメカニス4

  中原紀生

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-33.html
  ■土をこねて一生を使いはたす生き方
  はじめに、前章の最後で、和歌の表現における「自然の事物事象の多出」 
 をめぐって書いたことに、若干の補足をします。
  ……自然曼荼羅における事物事象群は、自然記号としての「コトバ」であ
 り、かつ、いま・ここに現象する思ひとしての「ココロ」であり、それらは
 同時に、クオリア的実在としての「モノ」そのものである。つまり、自然曼
 荼羅こそ、和歌をなりたたせる「物・心・詞」の三つの要素を束ねる窮極の
 アソシエイションである。
  そうしたアソシエイションの優位のもとで遂行される「やまとうたの思想」
 にあって、「よろづ」と「ひとのこころ」と「ことのは」は、自然曼荼羅のう
 ちに水平的交換と垂直的映現の関係をきりむすぶ。和歌を詠むとは、そのよう
 な、「モノ=ココロ=コトバ」となって自然曼荼羅を現出させる高次の位相に
 おける事物事象を詠むこと、あるいは自然の事物事象が自らを詠みいだすこと
 にほかならない。……(以下、Webに続く)

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 ●連載「新・玩物草紙」●
  消える仕掛け/凍った言葉

  寺田 操

http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-15.html
  ボルヘス『砂の本』(集英社文庫/1995・11)は何度も読みたくなる
 短篇集。表題の「砂の本」は絶品だ。神聖な本をお目にかけられると男から声
 をかけられた。開いた1度目はページ数がでたらめに並び、ペン書きの稚拙な
 錨の絵が挿入されていた。2度目に開いたときは、どこをめくっても錨の絵が
 でてこない。3度目は、表紙と親指のあいだに何枚ものページがはさまり、湧
 きだす感じで、最初のページも最後のページもみつけられない。男は「この本
 のページは、まさしく無限です。どのページも最初でなく、また、最後でもな
 い」と言った。高額で入手した主人公は、家にこもり本のとりこになるが、や
 がて本が怪物と気がつく。火も考えたが、退職する前に勤務していた国立図書
 館の棚のひとつにかくした。 (以下、Webに続く)