鶴見発言のビデオ・クリップ

昨晩眠れないので机周りを整理したりしていると、昔々に黒猫房主がリポートしたレジュメが出てきたので、お披露目しておく。

NHK教育TV<未来潮流>「哲学者・鶴見俊輔が語る日本人は何を捨ててきたのか」を観ることからかんがえはじめる<個人>とは?

思想の科学」大阪グループ5月例会・レジュメ改訂版②
1997/5/24 於:阿倍野市民学習センター

NHK教育TV<未来潮流>「哲学者・鶴見俊輔が語る日本人は何を捨ててきたのか」(鶴見俊輔関川夏央)より、関連する発言をビデオ・クリップしましたが、適宜、内容補足をしました。
関川:70年代までの鶴見さんの行動が華やかであったが、自分は著作には触れていなかった。戦後とは何か、近代とは何かを考えるときに、鶴見さんを再発見して切実な興味を持った。
「日本人はどのように変わったのか、あるいは変わらずに持ち続けてきたものは何か。」以下、鶴見の発言から要約。

①<樽>の巧みさとは
  明治の国家制度の巧みさが<樽>を造り、そのなかで近代化を主張したが<樽>のなかであることの自覚がないために、<個人>がいなくなった。(名刺の交換ばかりで<個人>がいない。)しかしその<樽>を造ったのは、伊藤博文のような<個人>であった。
  1853年問題とは
  何故、1853年前には<個人>がいたのか。
  ジョン万次郎・大黒光太夫などを<個人>の範例として挙げる。
  明治以降、国家は近代的自己をめざして養成したはずなのに、<個人>はいなくなった。
  <樽>の中で養成したものは、<個人>ではない。
  「樽の中の学習」それは<犬の読心術>にほかならない。効率よく先生の<正解>を答えるのみである。
  しかし15年戦争によって、<樽のなかの個人>は洗い流されたはずが、アメリカの安上がりな占領方法として、戦後にも<樽>はを温存された。(東京大学を頂点とする教育制度は解体されなかった。)
②<共和的>という理想
  共和的という以外に人間に、どんな理想があるのか。
  (朝日新聞のインタビューでは、「銭湯デモクラシーというが、銭湯では知らない人間が裸になってもけんかもしないし、殺し合わない。こういうルールこそ偉大な民主主義で、まさに体験のなかにある憲法ですよ。」と答えている。)
③大衆文化論
  <気配>を感じる文化(いがらしみきおぼのぼの」に継承される。)
  <気配>を探り当てる道(文化)を、如何に取り戻すか。
  マンガ「寄生獣岩明均が示唆するもの→<近代的自我>から<複合的自我>へ<理想>の本格的なものを措定しない。<近代的自我>から自由であること。
  正義や絶対に対する懐疑.
④<言葉のお守り的使用>について
  美辞美文の循環論法
⑤<転向>について
  転向問題に直面しない思想というのは、子供の思想、親がかりの学生の思想なのであって、いわばタタミの上でする水泳にすぎない。就職、結婚、地位の変化にともなうさまざまの圧力にたえて、なんらかの転向をなしつつ思想を行動化してゆくことこそ、成人の思想であるといえよう。非転向の稜線に規準をおいて、そこから現代の諸思想を裁くことは、子供の思想によって大人の思想を裁くこっけいをあえてすることになりかねない。(鶴見俊輔「転向の共同研究について」より)
  中野重治(1902-1979)における<転向>の在り方。(小説「村の家」)
ミリアム・シュルババーグによる中野重治論「changing song」
  (転向しながらも歌=文学をやめないで、抵抗しながら文学を続けた中野重治論。)
  吉本隆明の「転向論」
「わたしは、佐野、鍋山的な転向を、日本的な封建制の優性に屈したものとみたいし、小林、宮本の「非転向」の転向を、日本的モデルニスムスの指標として、いわば、日本の封建的劣性との対決を回避したものとしてみたい。(中略)中野は転向によって、はじめて具体的なヴィジョンを目の前にすえることができたその錯綜した封建的土壌と対峙することを、ふたたびこころにきめたのである。(中略)わたしは、中野の転向(思考変換)を、佐野、鍋山の転向や小林(多)、宮本、蔵原の「非転向」よりも、はるかに優位におきたいとかんがえる。」(吉本隆明「転向論」より)

 車輪の発明者の名前は誰も知らず(中野重治)。→そこには、まさしく無名の<個人>がいた。
⑥<悪人>意識から生じる<懐疑主義
  (鶴見を根底で規定している<悪人>意識は、<正義>の人、母親・愛子から植え付けられたものだが、その母親との葛藤から、思想の絶対性を認めない、疑問や批判の自由を大切にする態度がもたらされた。思想としては相対主義多元主義、世界観としては無政府主義につながる。)
⑦大衆のイメージ
  私は疑う大衆という存在を信じているのです。
  兵隊なんかでポヤポヤしたヒゲを生しているのがいたでしょう。
  あれは軍隊の秩序に対する疑いの表明なんです。
  疑いは力によって、排除できない。
  人間あるところ、大衆あるところ、必ず疑いは残るというのが私の信仰だな。
  狸のようでありたい!
ベトナムに平和を市民連合のこと
⑨skin deep=表層的ということ
 敗戦をインテリ(進歩的知識人)は刻印として受け取らず洗い流してしまった。その皮相な思想性を批判。
 ほんものの思想は何かというふうには問わない。
 真理は間違いから逆算される。真理は方法感覚で、間違ったことの記憶をしっかり持っていることが必要(消極的能力)→大衆文学に継承される。

⑩日本における沖縄問題
 沖縄から<個人>の思想が表れてきている。
 沖縄は未来を代表する。
⑪郷土主義・銭湯デモクラシーの可能性
(鶴見は、「日本の民主主義は村にあって、村八分という制裁方法は異端分子を徹底的に制裁する西欧の魔女狩りと違ってニ分の言い分を残している」。そこに可能性を汲み取ろうとする。これについては、<他者>の不在を指摘する批判がある。)
(「村ハチブ」の註/葬式互助と災害防除の二つを除いていっさいの村交際を断絶するゆえ「村八分」と称するという俗説は誤りで、「ハチブ」の原義はハジク、ハッチル、ハブクなどの語意に通じ、「撥分」と記した古い用例もある。)
サリン事件における河野義行さんの態度は、まさしく<個人>である。
 それに比して<進歩的知識人>はskin deepであると批判。
⑬戦後の人口調整(制限)は、権力の強制によるものではない。日本人の大衆的思想の達成として評価。
⑭鶴見の規準によれば、日本の未来は明るい。
 少子化による人口減少は、老人が老人を支える社会となるだろう。(そのための技術革新とマーケットの創設が必要になる。)
⑮思想の原則
 活字に書かれた原則をうけいれるようではありたくない。
 自分の舌とかペンとかだけではなく、不随意筋の動きを考えにいれた哲学をつくりたい。
 自分の思想をつくりだす原思想と、しっかりかみあう思想をつくることが問題だ。
<黒猫房主の感想>
 近代的個人(近代主義=合理的・理性的人間像)を理想とする考え方の底流には、<曖昧さ>や<間違い>を排除する体系的・包括的発想が横たわっているが、鶴見はそのような個人が空虚な自我であり虚構であることを批判的に示唆しているように思う。(自我の統一性を相対化する非体系の思想/皮相な進歩的知識人批判、スターリニズム批判)
 そのことは、日本の<大衆文化>や<村文化>の中に、日常生活を多元的に生きる具体的な<個人>、あるいは<複合的自我=共和的個人>を肯定的に再発見しようとする思想性(態度)に基づいているようである(伝記的手法の評価)。
 鶴見が捕まえたこの<個人>は<市民=民主主義>の基層を形成するものであり、吉本隆明の捉える<大衆の原像>とは鋭く背反しながらも、大衆を敵にしない(大衆を思想に繰り込む)というその志向性においては共振しあっているように思える。
(参考文献)
 上原隆・著『「普通の人」の哲学』(毎日新聞社
 新藤謙・著「ぼくは悪人−少年鶴見俊輔」(東方出版
 菅孝行・著「鶴見俊輔論」(第三文明社
 ゆりはじめ・著「鶴見俊輔論」(「現代思想家論」所収/レグルス文庫)
<付録>
①「大衆」という概念を、マス・コミュニケーション下にみずから登場する「知的大衆」と同一と見なし、マス・コミュニケーション下にみずから登場することを、いいかえ れば知識人にちかづく方向を高次にあるものと見なすことである。わたしは、「大衆」をそういうものとして捉えることに反対する。「大衆」を依然として、常住的に「話す」から「生活する」(行為する)という過程にかえるものとしてかんがえる。また、「大衆」が、この「話す」から「生活する」(行為する)という過程を、みずから下降し、意識化するとき、権力を超える高次に「自立」するものとみなす。わたしが、解体期スターリニズム(構改論)や硬化スターリニズム毛沢東主義)に反対するのは、その思想の基本構造に、どうしても鶴見の予見するプラグマチズムとの混合の傾向をふくむからである。かくして、「大衆」の原イメージは、けっしてマス・コミ下 に登場しない、「マス」そのもである。(吉本隆明「日本のナショナリズム」より
 たとえ社会の情況がどうであろうとも、政治的な情況がどうであろうとも、さしあったて「わたし」が現に生活し、明日も生活するということだけが重要なので、情況が 直接にあるいは間接に「わたし」の生活に影響をおよぼしていようといまいと、それをかんがえる必要もないし、かんがえたとてどうなるものでもないという前提にたてば、情況について語ること自体が意味がないのである。これが、かんがえられるかぎり大衆が存在しているあるがままの原像である。(中略)大衆は社会の構成の生活水準によってしかとらえず、けっしてそこを離陸しようとしないという理由で、きわめて強固な巨大な基盤のうえにたっている。それとともに、情況に着目しようとしないために、現況にたいしてはきわめて現象的な存在である。もっとも強固な巨大な生活基盤と、もっとも微小な幻想のなかに存在するという矛盾が大衆のもっている本質的な存在様式である。(吉本隆明「情況とはなにか」より
②自分のありのままのくらしを書くことを共同の綱領とする記録サークルもあったが、ありのままを書くということは、私小説家にとってもおそらくはむずかしいことであろう。あったことだけを書くという理想をたてることはできようが、そこでも、あったことのどの部分をとりあげて書くかによって、さけがたく虚構が入ってくる。まして、私小説家としてくらしをたてるという社会的特権をもっていないものにとって、自分の身のまわりにおこったことを実名でそのまま書くということは、生きてゆかないということにひとしい。決して文章などを生涯にわたって書くということのない者の威厳が、大衆の威厳だということを、吉本隆明、大河原昌夫とともに、私もうけいれる他ない。同時に、日本の現状において、けっして文章を書くことのない大衆とは、現象としても存在しないので、一つの範型として考える他ないと思う。自分のくらしを公共に語ることのない大衆は、それ自身の虚構性をもち、仮面をまとっている。小説家や戯曲家だけが仮面をまとって語っているのではなく、大衆みずからについて語る仕方の中に、大衆が自己の内面において考える過程の中に、仮面をまとう分裂した自我の対話がある。仮面は自我の属性であり、仮面を消すということは、自我を消すことになろう。(中略)仮面のない自我というものは、もはやこの有機体からはなれた汗や小便、大便のようなものをさすもののようには思える。その意味では、クソ・リアリズムという言葉には、するどい批判がかくされている。(中略)
 吉本隆明が「日本のナショナリズム」の中でのべた批判で、彼は、大衆は、くらしと話すこととのサイクルにおいて生きてゆくもので、書くということは、そのサイクルの外にある。生活綴方運動などというものに参加する人びとは大衆ではないとした。私は、書くということを区切り目として、大衆と知識人とをこのようにするどくわけることは、日本の大衆の実状にあっていないと思う。
 だが、同時に、大衆自身の書いた記録の外に立つ、決して書くことのない大衆の原像を措定することは必要であり、吉本のサークル批判は、この意味で、大切だ。(鶴見俊輔「なぜサークルを研究するか」より