続「精神に弱者はない」を受けて……


そう(「精神に弱者はない」)は言っても、心の弱い強いは現実にあるのではないか? という感想はすぐに揺り戻してきますね。つまり社会構築的とは言えないような個人の絶対感(度)における「心の強弱」というのはあるのじゃないか? という反論。
例えば、経済的にも保障されている人が病気などして今後の生活を憂えて気弱になったり絶望したりする事態があります。また、「いじめ」にあった子供が自殺をしたりします(もちろん、いじめをするほうが悪いのですが)。
こういう事態に対して「心を強く持て」と言っても詮ないわけです。なぜならそのように「心を強く持て」ないことが、その人を苦しめているからです。
頑張りたいと思っても張れないで懊悩している人に、頑張れという言うのは残酷な仕打ちです。
こういうことを知っているはずの野田正彰さんが、「精神に弱者はない」という断言はどのような効果があるのでしょうか?
ちょっとずらしてみます。
ニーチェの「永劫回帰」というのは、まさに精神の強度を表した言葉です。
それは「この人生を、他者や外部の視点からの意味づけによってではなく、自分であることによって、そのまま肯定することを教えるのである。だからその肯定は、この世界を、この瞬間を、この人生を、それ自体として、奇跡として、輝かしいものとして、感じるがゆえに、おのずとなされる肯定でなければならない。/つまり、意志の力によって強く肯定されてはならないのだ。(……)今日の社会的状況においては、ニーチェを深く理解できる感度を持つような者こそが、おそらくは最も卑称な弱者であろう。」(永井均『これがニーチェだ』p180〜182)
永井の言う「弱者」は、反語的に「ニーチェ主義者」を指していると思われます。
どのように不遇な人生であっても、これを運命として「よし」としかつそれを永遠に反復してもそのことを肯定し得る精神の強度が、「意志の力=強い心」から生じると思いたい/思っている者のことです。そして反転して、自分にはそのような「意志の力=強い心」が持てないと思うことから、ヒーローを待望する者たちのことです(……というように僕は理解していますが)。
しかし、そうではない! 「精神に弱者はない」ということがほんとうであるならば、それはいまこのようにある私をそのまま肯定すること、否、肯定されて「よい」ことを知ることだ思います(<ある>ことは、よい! そしてソクラテスのように「あるべき姿=イデア」を指向しない?)。その<ある>ことの肯定を阻害/疎外しているものは何か? それこそが撃つべき敵なのではないでしょうか?(★10/29、10:35に加筆修正しました。)

これがニーチェだ (講談社現代新書)

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