「精神に弱者はない」という言葉を受けて……。


畏友・野原燐さんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061027)で、10/22集会の野田正彰さんの講演での出来事とその発言について考察されていますので、ぜひお読みください。

精神に弱者はない。ただ社会は常にそういうしゃべり方はおかしいとか勉強ができないといけないとか無数の基準で精神を締め付けてくる。だからしゃべれなくなったり自分を弱者と思ってしまうのはよく分かる。しかしそれは社会が勝手に設定した基準でものごとを計っているからにすぎない。本来、精神に弱者はないのである。というようなことを野田氏は言われました。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061027

この発言については、デモに参加した友人たちとの一杯飲み屋でも話題になりました。それは僕より若い友人が「そうかな……」という疑問からでしたが、そのとき僕は小泉義之の『病いの哲学』(ちくま新書)のフレーズを連想して紹介しました。

障害者、とくに生来の障害者は、生体として捉えるなら、何も欠けるところはないし、何も余るところはない。欠如も過剰もない。(……)発生過程における生物的に不出来なものは、子宮・胎盤内における強力な自然選択によって、(……)この過酷な過程を凌いで生まれ出てきたすべてのものは、出来上がった完成したものとして、アリストテレスの用語では完全現実態として受け止めなければならない。(……)この意味で、生まれ来る障害者には何の欠陥もないのであり、そもそも障害者と呼称すること自体が間違えていることになる。障害者はまさに社会的に構築された概念である。
小泉義之の『病いの哲学』(ちくま新書)p166〜167より>

J・J・ルソーは『人間不平等起源論』において、社会=制度が政治的不平等を社会構築していると指摘していますが、僕たちは「〜できる/できない」ということを人の価値として、その社会の価値レンジに応じて評価するように仕向けられています。そしてそれが主体として内面化(主体化)されるとき、「自発的服従」の完成形態でしょうね!

僕は以前に、小泉義之の上記の考えを念頭に「<ある>ことは、よい!」を書いたので、読んでみてください。http://kujronekob.exblog.jp/m2006-08-01/#3481390


それから野原さんが問題にしている「弱者」という「集合表象/代理表象」を打ち出す闘い方のアポリアは、生-政治へ/からの「落とし穴=罠」として、常にすでに存在しているように思います。

(10/28に続く↑)★18:10に少し訂正加筆しました。

病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)

人間不平等起源論 (1974年) (中公文庫)

人間不平等起源論 (1974年) (中公文庫)