民衆が決して<こころ>を国家に委ねないことだけは、はっきりしている。

と、精神科医高岡健氏は『こころ真論』(高岡 健・宮台真司 編)という新刊の「まえがき」で断言しているが、そうあることを希望する。
僕は高岡氏の見通しと見解にも、すべてではないが強く共感するところが多いにあるので、下記に引用する。今日買ってきたばかりで、本文は未読(これから……)。

まえがき

 二〇〇六年五月の国会党首討論小泉純一郎首相は、「今日のすさんだ日本社会の状況について、どうとらえているのか」と問う小沢一郎氏に対し、「まさに心の問題」だと答弁した。また、「教育の基本的な責任はどこにあると思うか」という重ねての問いには、「基本的には親にあると思う」と応じた。
 ここに「社会などというものはない、男と女がいて家族があるだけだ」というマーガレット・サッチャーの言葉を加えれば、新自由主義者にとっては完壁な答えが述べられたことになる。政治の自然的過程と人為的過程の双方がもたらす矛盾を、<こころ>と親の責任に「丸投げ」してすませる姿が、そこにはある。換言するなら、その姿こそが、小さな政府と自己責任論の主張にほかならない。
 小さな政府と自己責任論は、いかなる意味でも個人相互の紐帯を弱める。だから、国家は必然のように教育と法によって、失われた<こころ>の共同性を強化しようとしてやまない。こうして、心の教育の失敗や米軍トランスフォーメーションの動向とリンクしつつ、国と郷土を愛するための教育基本法改正論と憲法改正論が浮上することになる。つまり、民衆に対して国家は(流行語が好みならマルチチユードに対して国家は)、<こころ>を委ねるよう強いているのだ。
 だが、教育基本法憲法も、本来、民衆が国家に対して要求し、締結する契約だ。民衆が求めない限り、文教族議員や松下政経塾議員に、それらの改正を提起する資格はない。ましてや、安倍普三首相にその資格があろうはずもない。そして、民衆が決して<こころ>を国家に委ねないことだけは、はっきりしている。

 教育も国家も、その威力を半減させたほうがいい。その分だけ<こころ>の自由度は高まる。同じく、司法も行政も、<こころ>への介入を半分にまで減衰させるべきだ。それらの原則もまた、はっきりしているといってよい。
 国家の威力と介入が半分になったとき、民衆の<こころ>は、どこへ向かおうとするのか。これこそが、二一世紀を規定する主題だ。しかし、<こころ>に対する介入を、半減させるまでの道のりは遠い。一九九八年以来、毎年三万人を超える日本の自殺者数は、そのことを象徴している。
 少しだけ細かく見てみよう。第一に、いつの時代にも比率が相対的に高い五〇〜六〇歳代の自殺者数は、相変わらず高いものの、二〇〇五年は微減へ向かっている。第二に、相対的に低かった若い世代の自殺者数は、増加へと転じている。これら二つの事実は、何を意味しているのか。
 数値の上にのみ現れた不況からの脱出が、景気と相関関係があるといわれる中高年の自殺者数の微減に寄与した。しかし、バブル経済崩壊後の失われた一五年は、若年者から未来に関するデザインを奪った。このことが、自殺者数の推移を規定している。
 だから、自殺リスクの高い人々の早期発見や、医療体制の整備しか含んでいないような「自殺対策基本法」を議員立法で成立させることが、何らかの解決をもたらすわけがない。この法律をめぐって署名活動を展開していた多くの団体には異論があるだろうが、究極の<こころ>の問題としての自殺に、国家は直接的には関与しないほうがいいのだ。
 もちろん、医療福祉体制は整備されることが望ましいし、自殺未遂者や遺族へのケアは十分に提供されるべきだ。それでも、国家がなすべきは<こころ>への介入ではなく、景気の本格的な回復であり、新しい企業や労働そして生活のあり方の模索に対し、十分な資金を提供することだけだ。前者と後者は、決して混同されるべきではない。
 もう一つ、別の例を挙げてみよう。自民党税制調査会は、少子化対策としての子育て減税の財源を確保するため、所得税の扶養控除に年齢制限を新設し、いわゆるニートやフリーターの人々を対象から外そうとしている。ニートやフリーターと呼ばれる人々は直接税を納めないが、これから生まれる子どもは将来、納税者になるだろうと期待しているがゆえに、そうしたいのだろう。
 しかし、考えればすぐわかるように、これから生まれる子どもが、喜んで直接税を納める大人になるという保証は、どこにもないのだ。逆に、ニートやフリーターの人々は、現在でも間接税を支払っているばかりか、GNPの過半を占める消費に寄与している。結局、自民税調の狭窄した思考は、生のあり方を管理しようとして失敗が予定されているビオーポリティーク(生・政治学)に過ぎない。 ここでも国家は、民衆の<こころ>に介入すべきではないのだ。民衆が努力して稼いだ金を自らの子どもに使うことに、悪い理由があろうはずもない。何かをしたいのなら、むしろニートやフリーターと呼ばれる人たちをもつ世帯を、減税の対象にするべきだ。それだけでも、ぎすぎすした日本の社会にどれほど大きな余裕をもたらすか、計りしれない。ついでに言うなら、半分は皮肉で半分は本気の、この提案の意味するところがわからなければ、その人たちは、政治屋ではなく引き出し屋にでもなるしかないと言える。(後略)

2006年初秋

高岡 健

(『こころ真論』高岡 健・宮台真司藤原和博、ほか(ウエイツ刊)より)
赤字強調は、引用者による。

経済政策としては、世界的な「ベーシック・インカム」の拡充が理論的にはよいと思う。これは「富の分配」「労働の分配」「資源の分配」とセットで行われる必要がある。しかしそれは一国内の「ベーシック・インカム」政策だけでは、うまく成功しないだろう。その辺りが厳しいところ。それを阻害する要因の幾つかとして、所有的個人主義(私が稼いだものは、私のものだ)と、熱い「愛国心」の態度が挙げられるように思う。
僕が「冷たい愛」と言っていることには、立岩真也氏の「冷たい福祉国家=分配する最小国家」が念頭にある。個人がその国境を越えて世界中の他者の存在肯定をするためには、「冷たい愛」によって粛々と「富の分配」「労働の分配」「資源の分配」に寄与することが権利/義務であり、それらの分配のシステムとしてのみ国家を認める「冷たい愛」なのである。
また念のために、「冷たい愛」は共生/共棲における、その都度の関係性で生じる「格別の愛」は否定しないし、否定のしようもない。


ところで、高岡健氏と僕は多少の縁があるが、向こうはもう失念しているかもしれない……過去のブログより下記に引用。

ある精神医療系の雑誌に掲載するための対談だったのですが、その雑誌が3号であえなく廃刊、版元も倒産したのでその対談記事は永らくお蔵入となっていました。それが今夏、『時代病』(吉本隆明高岡健、ウエイツ刊)の第一章として復活しました。誠に喜ばしい限りです。
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20051022

因みに上記に引用した『時代病』の初版本は誤植だらけだから、2刷以降をお薦めする(2刷は訂正されていた)。僕はこの対談の立ち会いと構成原稿を請け負って作成したのだが、初刷を買って冷や汗あわてて10年前の初稿ゲラデータを見直し誤植の原因が僕にないことで安堵した(苦笑)。
どのような経由でこの原稿が本になったのかは知らないが、(高岡氏の初校ゲラ戻しを僕は見ていないし版元の倒産そして消失と共にその初校は行方不明)推測するには高岡氏の手元にあった初校ゲラをスキャニングしたか、手入力したと思われる。その際の誤変換による誤植と思われるからだが、この誤植ひどすぎ!
親鸞」が「親鷲」になったり「親鷺」になったりしているからだ! 正しく「親鸞」との印字もあるから、、手入力であれば入力者は「しんらん」と読んでいる。間違いなくスキャニングによる誤変換だろう。しかし編集者はちゃんと校正しろよ!(プンプン)と思いながらも……、誤植の見落としは人ごとでない(苦笑)。
★僕も、このブログでよく誤字・脱字をしている!

こころ「真」論 (That's Japan Special)

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時代病 (That’s Japan Special)

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