反戦ビラ訴訟2

モジモジさんから(http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20051221
)12/21の僕のエントリーに異論/批判を頂戴した。モジモジさんとは方向性において大きくは違っていないと勝手に思っているので、友好的に議論したいと思っている。
モジモジさんの主要な論点は、政治ビラは商業ビラより優越的に保護されるべきである、というものである。僕は先にも書いているように「表現の自由」をその内容や目的を問わず形式主義的に肯定すべきだという立場から、政治ビラと商業ビラを内容や目的によって区別すべきではないという論点である。
そのほうが、多数派の価値基準によって少数派の意見や主張が差別・排除される可能性を防御できる、と考える。だから「表現の自由」において、少数派が自ら目的や内容による価値の差別化を申し出ることは、却って多数派からの攻撃の隙(二重基準)を与えることであり、僕には敗北主義的に映ってしまうのだが……。
以下にその批判部分を引用しながら考えてみる。

僕の見解としては、断じて、政治ビラは商業ビラより優越的に保護されるべきである。商取引というものは基本的にWIN−WIN関係を作るからこその関係であり、それを一方が拒む場合には既に成り立たないのも当然である。だから、これはあらかじめ主体的に拒んでおくとしても、そもそも情報へのアクセスを拒否するとしても、別に問題はない。しかし、政治的主張は、前にも書いたが、「おまえが聞きたくなくてもこっちには話があるんだよ」というものであり、本質的に、聞きたくない人の耳にいれることが可能でなければ無意味なものである。民主社会に生きており、そこにおいて政治的な権限を付与された存在である以上、聞きたくない政治的主張に物理的に出会わないようにしてよい権利などない。音楽を聞いている相手からヘッドフォンを勝手にはずしてキャッチセールスを行うのは不当だが、同様にヘッドフォンをはずして「足を踏むな」と言うのは正当だ。商業広告は侵襲的であっては無意味だが、逆に、政治的主張は侵襲的でなければ無意味だ。過度に暴力的であっていいわけではないが、「聞きたくないことを聞く」という程度の侵襲性をもって暴力的だと言ってしまうならば、そんなところで民主主義は不可能だ。ゆえに、仮に商業ビラのポスティングが摘発されるとしても、政治ビラのポスティングはより保護されてよいと考える。

例えば足を踏まれた人が、抗議として<ヘッドフォンをはずして「足を踏むな」と言うのは正当だ」>と言うモジモジさんの意見には、僕は全面的に同意する。だが、その言い方は様々だろう。怒りにまかせて怒鳴る、胸ぐらを掴むくらいのことはあるかもしれない。あるいは相手が足を踏んづけていることを注意(抗議)してやめてもらう。
「差別者」は差別していることに無知で差別していることが多い。だから、「被差別者」はそのことを教えなければならない。しかしそのこと事態が不当な状況としてあるから、「被差別者」の怒りはいや増すのだ。その怒りがまた「差別者」には理解できないという事態が重なってくるから、逸脱して多少暴力的になることもあるだろう。
僕は抗議権/抵抗権として、上記のいずれの場合も肯定するから「侵襲的」であってよいと思うが、どのようにすればより効果的に相手に伝わるかを考えみるべきだろうとは思う。(註:「暴力」の定義は多数派によって恣意的に解釈されることが多いので、あえてその程度や制限に言及していない。この点は末尾のベンヤミンの「暴力批判論」と併せて捉えてほしい。)
例えば、ピンクチラシに「イラク派兵反対」というメッセージを刷り込むという戦術もありだと思う。この瞬間、ピンクチラシは商業ビラでもあるが政治ビラでもあるのだから、わざわざ権力に政治ビラと商業ビラの区別などしてもらう必要などないのだ!

「どちらが人々の役に立っているか、生活を豊かにしているかと言えば当然にピザ屋やデリヘルの方だ」などと言うに至っては、生活保守主義的浅ましさを感じる。そもそも政治的主張というのは、役に立つとは一体何か、あるいは役に立つかどうかという物差しをどこで使ってよいのか/よくないのかを決めるためにやりとりされるものであり、役に立つかどうか云々というレベルで商業広告と比較しうるものではない。

モジモジさんは「役に立つ」という概念を狭く考えすぎてはいないか? 僕は先にカントの『啓蒙とは何か』の記述を引用したが、これは「表現の自由」を擁護するために「役に立つ」と思ったから引用したのだし、「役に立つ=有用性」とはそれを受け取る人の恣意性に任せるべきだと思う。つまりカントの主張が高級だから引用したのではない。それは同時に「役に立つ」ことを相対化する。だから僕は、ピンクチラシとカントを同じ位相で論じる視点をもちたいと思う。まぁ端的に言えば、僕は「清潔」よりも「猥雑」を好むし、そのような僕の趣向を否定されたくはない。
でなければ有用性は権力によって、すでに/つねに統制されてしまうことになる。それは「ただある」ことの存在の肯定を否定することに繋がりはしないだろうか?
そして、モジモジさんが「生活保守主義的浅ましさを感じる」という気持ちは尊重するが、それは批判にはなり得ていない以上、公言すべきではない。あなたは、かつて/今後とも宅配ビザ屋を利用しないと断言するのだろうか?

もちろん、いつでも常に無条件に政治ビラのポスティングが守られるべき、などとは言わない。明らかに暴力的であったり、数による示威的な振舞いがあったりなど、不穏当なやり方があるならば、それは「その暴力的振舞いを根拠として」摘発されるべきである。

この主張は穏当というか、腰砕けに僕には思える。別に「過激であれ!」といいたいわけではないのだが……。
かつて、平岡正明が講演会で公安に俺の意見を聞かせてやる、という啖呵を切ったというエピソードがある。
モジモジさんが政治的主張の侵襲性を肯定するのならば、無条件に政治ビラのポスティングは肯定されてよいと言ってもよいのではないのか? これは揚げ足取りではなく「覚悟」のほどを聞いている(もちろん、覚悟がなければ論じるべきではない、というつもりではないので念のため!)。つまり立川で反戦ビラを自衛隊宿舎にポスティングした活動家たちは、その覚悟をもっていたと僕は予想している。
これはピンクチラシの業者が逮捕される「覚悟」と通底しているように、僕は考える。それはどういうことかというと、「異議申し立て」という抗議行為への否定は、つねに/すでに多数派=権力の都合によって合法的に変更されるのだから、抵抗権としての実力行使はベンヤミン風に言えば(いわゆる暴力とは区別される)「神的暴力」として肯定されるべきなのだ。

参照:「イラク戦争/第二次アメリカ戦争」から考える:黒猫房主、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re27.html#27-2
★追加事項★24日10:30頃に、少し加筆修正しました。
★追加事項★25日10:30頃に、以下のように加筆修正しました。
<「異議申し立て」という抗議行為への否定は、つねに/すでに多数派=権力の都合によって合法的に変更されるのだから、抵抗権としての実力行使はベンヤミン風に言えば(いわゆる暴力とは区別される)「神的暴力」として肯定されるべきなのだ。>