「議会主義」の脱構築としての「議会外活動」の有効性について


昨日のエントリー「市野川容孝さんのブログより」に関連する、研幾堂さんの批判は含蓄深く示唆に富むものなので下記に部分引用するが、是非にも全文を読まれることをお奨めする。
研幾堂さんは、「議会の限界と欠陥」をあげつらう前に「議会思想」を構築しなければならないと主張されているように思われる。

noharra 氏が紹介した市野川容孝の記事に反応して、もうすでに幾つものブログで、議会制民主主義はファシズムになる「可能性がある」という書き方で、議会制民主主義は則ちファシズムである、という意味で言い表されているものが現れていることに、我々の現在での政治思想、あるいは政治知識の貧弱と欠落の土壌には、その成長力を高く有していることを示していると思われる。少し失礼ながら、言葉を激して記させてみたい、こんな馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか、日本人は、議会制民主主義がファシズムになるものだ、と脅されて、ファシズムを避けるつもりで、議会制民主主義を棄てようとするのである、こんな馬鹿な話があるか、なんて阿呆な、なんて頓痴気な、なんて愚かな、なんと蒙昧な、なんと度し難いのか、何故かくも自らの利益を量ることができないのか、なんと、なんと、なんと、・・・。(こんな書き方で、悪魔的言説をお祓いすることが出来るかどうか怪しいが、とにかく言っておくと、ファシズムに移行したかつての諸国は、独裁制から議会政治に回帰することで、現在に至っている。すなわち、議会制民主主義は、ファシズムになる可能性もあるが、ファシズムから回帰することを得る、しかも帰ってくる唯一の政治制度でもある。)

(中略)

議会政治は、いかなる(政治上の)失敗を繰り返そうとも、議会政治であることを放棄しない時に、その真価を発揮する。近現代史ファシズムの経験は、このことを手痛い教訓と共に、人類に教えた。すなわち、議会政治は、いくら他の政治形態による社会運営に魅力や、利益があるからと言って、議会政治であることを止めてしまったら、その社会に甚大な被害を及ぼすことになる、だから、議会政治は議会政治を自ら否定してはならない、という原則である。この原則が反映された条文が、我々の憲法の第十章(第九七条から九九条)の最高法規の章である。特に、その第九九条の憲法尊重擁護義務は、議会政治を自ら放棄してはならない(それは甚大な損失をこの社会にもたらすから、この憲法に従った政治運営の担い手は、まさに担い手として、このことを認識していなければならない)ということが、その真意である。
http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20061122

「noharra 氏が紹介した市野川容孝の記事に反応して」とあるので、たぶん僕のことも批判の対象にされた模様だ。それは「すでに幾つものブログで、議会制民主主義はファシズムになる「可能性がある」という書き方で、議会制民主主義は則ちファシズムである、という意味で言い表されているものが現れている」という指摘は、僕のことかしら?
まあ僕はそのようには書いてはいないはずだし僕もそのようには考えていないのだが、マルクスや柄谷に言及したことが、「議会制民主主義は則ちファシズムである」という短縮的理解と誤読につながったのかもしれない。またマルクスも柄谷も、そのような短縮的断定はしていないと思う。それと僕が調べた範囲でも、そのような短縮的断定をしたブログは見られなかったが……。
それは置いても、研幾堂さんの批判は含蓄深いので、少しく応答してみよう。
僕の考えは、昨日のエントリーでも書いたように「議会外活動」は議会の限界と欠陥を乗り越えるために(議会主義の救出というよりも、脱構築)、必要であり欠かせない活動なのだ! というものだ。
そしてその「議会外活動」とは、デモを含む批判や対抗言説としての意思表示による民主主義の深化である。小田実さんらのグループによる「市民の政策提言」も、その一例だろう。それらの対抗言説によって、議会の議論に反映させることが「議会主義の脱構築」にも繋がるだろう。
というのも、現状の議会における決議(合意)はルソー的な意味においての「一般意志としての正義」(カント的に言えば、「理性の公的使用」だろうか)をもたらさないからだ。それは、せいぜいのところ「全体意志としての合意」でしかない。だからそれをチェックし異議申し立てすることで、少しでも「一般意志としての正義」に近づけるのが「議会外活動」の意義だと思う(デリダ的に言えば、脱構築は正義だ!)。
「議会政治は、直ちに議会制民主主義のことではない」また「議会思想」の構築が未成熟だとする研幾堂さんの意見は(まさにその「一般意志の発現」に関わっていると思うが)、それは同時に「議会外活動」の未成熟にも対応しているように思われるが……如何だろう。

また「議会制民主主義は、ファシズムになる可能性もあるが、ファシズムから回帰することを得る、しかも帰ってくる唯一の政治制度でもある」と研幾堂さんは書かれているが、その意見には賛意を表明したい。。
しかしファシズム政権からその中断(戦争による敗北とかクーデターとか)を経ないで、議会制民主主義に回帰したという歴史的事例はあるのだろうか(不勉強です。ご教示ください)。
また「唯一の政治制度」かどうかは、代表制に代わる得るより優れた制度が発案されればその限りではないのだが、現状での選択肢としては議会制民主主義がベターであることには同意する。

ところで、市野川容孝さんのブログが話題になったせいか、同氏はその後に追記を書かれているので引用する。

【6】(2006年11月22日追記) 以上のような誤読、誤訳があったことは事実です。しかしながら、あらためて強調させていただきますが、拙著『社会』の上の箇所で述べた私自身の考えは、少しも訂正の必要を感じていません。「議会主義を時代遅れとして否定する」運動がまた、「恐れ」と「服従」という斧を刺した「束稈(ファスケス)」を生み出した、ということ。そして、「神的」暴力をそこから救出するためには、議会制民主主義そのものを救出する必要がある、ということ。問題は、この救出の途が何であるか、です。その途を、拙くはありますが、私は「議会制を超える議会制」という言葉で表現しました。
http://d.hatena.ne.jp/Ichinokawa/20061120

「議会制を超える議会制」というのは、「議会主義の脱構築」と解しても大きくは間違っていないだろう。だが、そのことを具体的イメージとして指し示すのは難しい。それは「議会外運動」の可能性/潜在性から発現してくるのではないだろうか。