赤木智弘氏の新著

★11/02深夜に、加筆訂正しました。一部見解と評価が変わっています。

おそらく、いちばん早い書評かも知れない、労働経済学者・濱口桂一郎さんのブログを紹介します。

赤木智弘氏の新著
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_c3f3.html

赤木智弘氏の新著その2〜リベサヨからソーシャルへ
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html

hamachanこと濱口氏は「オールド左翼」と「リベラル左派」の違いについては言及されているが、「ニュー左翼」と「リベラル左派」の相違への言及がないが、その辺はどうなんでしょうか?

それまでの「左派」というのは、「固有性に対する差別」を問題にするのはブルジョア的であり、まさに「努力しても報われない弱者」働いても働いても貧しさから逃れられない労働者たちの権利を強化することこそが重要だと考えるような人々であったのです。リベラルじゃないオールド左翼ってのはそういうものだったのです。赤木さんとおそらくもっとも波長があったであろうその人々は、かつては社会党のメイン勢力でもあったはずなのですが、気がつくと土井チルドレンたちが、赤木さんの言う「「固有性に対する差別」とたたかうことを強調するあまりに、「固有性でない差別」に対する理解が浅くなってい」る人々、私のいうリベサヨさんたちが左派の代表みたいな顔をするようになっていたわけです。この歴史認識がまず重要。

リベじゃないオールド左翼にとっては、「経済の強弱に於いて社会責任を付与」することは当然でした。当時の状況下では、これは、「女房子供の生活費まで含めて会社に賃金を要求する」こととニアリー・イコールでした。終戦直後に作られた電産型賃金体系が一気に日本中に広まったのは、そのためです。

しかし、やがてそういうオールド左翼のおっさんたちが、保守オヤジとして指弾されるようになっていきます。彼らに「固有性に対する差別」に対する感性が乏しく、「左翼は女性差別的」と思われるようになったからです。

ここまでの歴史が、おそらく赤木さんの認識の中には入っていません。その後の、オールド左翼が消えていき、社民党とはリベリベなフェミニズム政党であるとみんなが思うようになるのは、せいぜい80年代末以降です。そして、その後の彼らに対する認識は、赤木さんの言うとおりです。

リベサヨとネオリベ紙一重であるということは、実はこのブログでも何回も繰り返して述べてきたことです。そこを「左派」という言葉で括ってしまうと、せっかくの赤木さんの的確な認識が全然生きなくなります。むしろトンデモな言葉に聞こえてしまうのです。
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このhamachanさんの「左翼」定義は、正しいのだろうか? 「新左翼」に関する言及がないので、留保をしておきますが……。
いぜんから赤木氏の「左派」批判や「フェミズム」批判はずれているなあと思っていましたが、hamachanさんの解説で腑に落ちる部分もある。また、「リベサヨとネオリベ紙一重であるということは」は宮台真司稲葉振一郎も、同じような趣旨のことを言っていたように思いますね。

さて僕的には、新左翼および全共闘のOB・OGだちがその過激さを喪失して久しいが、自らの翼を「リベラル左派」あるいは「リベラル保守」あたりで「既得権」を得ながら着地せているらしいのは、どうなんでしょうか?(もちろん、そうでない「闘っている左翼」がいることは知っていますが、あまりにも「少数派」です。僕的には、この「少数派」こそが「左翼」と呼ぶに値する。現在、そのような少数派が権力による弾圧を受けていますが……。)
そして/だから、「リベラル左派」あるいは「リベラル保守」にとって、赤木氏の挑発的な提案が「耳障り/反動」に聞こえる今日この頃。

因みに上記hamachanさんの記事にコメントされている、「ちょっと」さんの下記の意見はもっともかな?どうでしょうか?

固有性を見ないというのはベーシックインカムとかに近くて、固有性を重視するというのは障害者がどうのこうのという話に代表されるでしょう

リベサヨ氏の中でもどちらに傾斜するかで傾向がある

ジェンフリとかの人は前者でフェミニストは後者な訳
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「固有性」を保証するためには、ベーシックインカムだけではダメだという立岩真也さんや野崎泰博さん*1の意見に繋がりますが、★(追記11/02)ジェンダーフリーというのはその固有性において差別されないことを主張するのであって、その固有性を無視することではないと思いますが?
「生存要求」と「承認要求」との違いとも切り分け表象されたりしますが、「生存」と「承認」はセットとして把握しなければ、つまりその「固有性」の承認あっての生存保証でなければ意味が無いと思いますね。


僕は赤木氏の「再配分要求」は正当だと思うが、雑誌「論座」で主張しているような「再配分構想」は承伏できない。これは以前にも、僕は批判しました。→http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/comment?date=20061208

同じように、hamachanさんも次のように判断されます。

自分(引用者註:赤木氏のこと)が捨てたリベサヨ的なものと自分を救うはずのソーシャルなものをごっちゃにして、富裕層がどんな儲けても構わないから、安定労働者層を引きずり下ろしたいと口走るわけです。安定労働者層を地獄に引きずり下ろしたからといって、ネオリベ博士が赤木君を引き上げてくれるわけではないのですがね。http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html

若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

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*1:野崎泰伸さんは、『フリーターズフリー』創刊号(発売元・人文書院)に「生活保護ベーシック・インカム」を寄稿。