「われわれ」の脱構築


新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。


さて、12/29の<まなびほぐす〜「われわれ」の脱構築>のエントリーに対して、kurahitoさんがブックマークのコメントとして

鶴見俊輔とアンラーン。腹芸というのは不随意筋の作用だろうか。コミュニオンというのも植物性だろうか。「国」という名のエトノス(単数)にエトノス(単数)で対抗するのはどうだろうか。

と書いていただいたので、別エントリーをたてて応答してみたい。
「腹芸というのは不随意筋の作用だろうか」という皮肉は効いている。腹芸*1というのは、もちろん随意筋のなせる芸であるが、鶴見は「不随意筋の動きを考えにいれた哲学をつくりたい」という(表層的な哲学に対して)深層的な言い方をしている。*2
鶴見の自分語り(『期待と回想』『戦争が遺したもの』ほか)の言説批判は必要だと思うが、この場合の「腹芸」というのは、矛盾の受容であり衝突回避の技(テクネー)でもある。それは鶴見の「政治性」でもあり「智慧」でもあるだろう。その辺をどう評価するかに関わってくる。
「コミュニオンというのも植物性だろうか」と問う「植物性」は、ネットワークとしての一体性の比喩だろうか。これは、わかる感じがする。
それから「「国」という名のエトノス(単数)にエトノス(単数)で対抗するのはどうだろうか」*3というのは、nationとethnosの関係として悩ましいテーマだが、僕は先のエントリーでの「われわれ」感情の構築性を採りあげ、それが制度としての「nation state=国民国家」として現れる場合の「nationalな感情」の有り様を考えたのだった。この「nationalな感情」を構築するのは教育をはじめとする作為的な「感情教育」であるだろう。しかしこの「感情教育」を可能にする基盤には言語性・地域性・民族性・宗教性などに感応する機微があると思われる。

したがってpatriotic spirit としての感情(この感情を「自然な感情」ということに対して僕は半分は肯定するが半分は疑問視する)が、同心円的に拡大して制度的「国家」を愛する「愛国心」になるという理解はとらないが、そのように利用されてきたとは思う。
近代国家としての「nation state」は、契約関係としての「われわれ=主権者」であることが本質であるならば、単一的なethnosに基づかない多民族共生的国家である/あるべきである。そして「われわれ」が「われわれに尽きない」ということを「まなびほぐす」ことから、「われわれとしてのローカル性/閉域性」の脱構築は要請されてくるだろう。


★参照:「イラク戦争/第二次アメリカ戦争」から考える。(2003.02.01記/黒猫房主)

*1:<① 芝居で、役者がせりふや動作によらず、思い入れなどで扮(ふん)する人物の気持を表すこと。転じて、直接的な言葉や行動によらず、度胸や経験で物事を処理すること。「―にたけた政治家」 ② 軽業(かるわざ)などで、あおむけに寝ている人の腹の上で、いろいろの芸を演ずること。>岩波国語辞典より

*2:不随意筋的な「思考の癖」のようなことは考えられるかも知れない。

*3:この問いは、Fさんのコメント<「民族主義」の立場から、私は反対するつもりです。でも「民族」も普遍的なものではありませんので、国家が「国」という「方便」を持ち出してくるなら、私も対抗して「方便」として使用するつもり、のみです>に対応しているのかも知れない。