反戦ビラ訴訟

★追加記述★12/22に、論旨をより明確にするために若干の加筆をしましたが、主張内容に変更はありません。
本日は23日の休日を振り替えて朝からWebサイトを読んでいる。それはいぜんに稲葉振一郎さんのブログで言及されていた「おおやにき」さんこと法哲学者の大屋雄裕(名古屋大助教授)さんのブログである。
可罰的違法性?」http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/archives/000133.htmlという、2005年12月17日のブログでのエントリーを引用しながら考えてみたい。
「まあ事件自体にはあまり関心がない」という大屋さんのスタンスから、純法学的に、ある意味では形式主義的に法哲学者の立場としてのコメントとして受けとるが、潜在的な価値観は排除できないのではないのか? むろん僕は学者ではないので誤読もあるだろうが……。

私自身の意見としては、こういうビラを形式的にせよ違法行為まで犯して撒くという行為は愚かしいと思うが、もちろん愚行権は保障されるべきだし、言論という手段であって身体・私有財産に危険が及んでいなければ自由を保障されるべきだと考えている。しかし違法は違法であって、むしろ解決は住居侵入罪の構成要件の解釈でできないのかなあと、刑法の素人としては思うわけである。「実質的に違法性がないから無罪」なんてロジックを正面から認めたら交通違反やった人間がみんな同じこと言うに決まってるわけで。

犯罪として処罰されるためには、「構成要件該当性」と「違法性」それに「有責性」の三段階が満たされる必要がある。これは法学部の学部レベルで習う素養だ。
そこで、「実質的に違法性がない」というレベルを何と比較考量するのが、この場合常識的に適切かという裁判官の判断があると思うのだが、如何?
おっと! 大屋先生はここで「住居侵入罪の構成要件の解釈」で対処しようとしているのは、「違法性」判断の裁判官の恣意性を排除したいからだろうか?
新聞配達の場合はもとより住居者が了承しているのだから「住居侵入罪」には当たらないだろう。しかし住居者が機嫌を損ねて「違法」だという可能性は皆無ではない。では、商業チラシの類の郵便受への投函は厳密に言えば「住居侵入罪」の構成要件には該当する可能性は高いだろう。

しかしこの事件を「政治的表現活動の自由」の問題として、商業活動の自由より尊重されるべきだから無罪にすべきだという朝日(および一部識者)の論調は大層気にいらない。「ピザ屋のビラならともかく」みたいなこと言ってるやつもいたな。じゃあ今回の裁判を支援した皆様は、次にピザ屋が捕まったら「それは商業活動であって神聖なる表現ではないから有罪にされて構わないんだぞ」とのたまうのだろうか。どちらが人々の役に立っているか、生活を豊かにしているかと言えば当然にピザ屋やデリヘルの方だと思うわけだが。だがそれは次に「低級な表現」を保護範囲から切り捨てることにつながるだろうし(猥褻表現は「表現の自由」の「表現」に入らない、なんて理論もかつてはあったわけですよ)、そうなったら自分の表現がいつその切り捨てられる側に入れられるかはわからない。品質や目的で表現を選別するという行為は少数者や文化的マイノリティの切り捨てにつながるし、その行き着く先は、たぶん社会主義リアリズムとかゲルマン的美術とか、まあそんなものだ。

僕は上記の意見に異論はなく、賛同する。デリヘルの文言に訂正をしているのは大学の先生の立場を慮ったのかもしれなないが、違法ではない「デリヘル」は生活を豊かにする可能性は形式的には否定すべきではない。というか、ここにかすかに大屋先生の価値観が紛れ込んでいるのだろう。

そうではなくて、互いの生活の空間が接している以上「完全なプライバシ」ということは不可能であって、従って制裁の対象とするかどうかは侵害・影響の程度によってしか決め得ず、そのときに確かにプライベートな領域に影響を及ぼすもののせいぜい「不愉快感」ないし「捨てる手間」にとどまるもの(i-mode spamのように受信料という経済的損害を生じさせるものですらない)は受忍範囲として互いに許容しあうべきなのだ、というロジックに立たなくてはならない。「政治的」だから保護されると言うのなら、数日前に指弾なされていた街宣車だって政治的だろう(それともあれは「正しく政治的」ではないから保護されない、とでもおっしゃるのかしら、まさかね)。そんなふうに理由なく「思想」を「経済」より持ち上げるから経済的な現実から復讐されるんだよ、と根拠なく決め付けてみる。まあでも一番リアリティを感じたのは「抗議は命令される側じゃなくて命令する側にしてきてくれ」(意訳)という自衛隊関係者の文句ですけどね。

この点も前半は同意。この前半の論理から推して、反戦チラシの「住居侵入罪」に該当する違法性(12/22、追加記述)は受忍限度内と僕は考えるが、もちろんそう思わない人たちいるだろうから、そうであるならばその旨を合意して表記するくらいの強い意思表示がなければ、反戦チラシの違法性を交通違反の違法性とは同列には比較できないのではないのか、という疑問が湧く。ここにも大屋さんの価値観およびレトリックが伺い知れる。
すくなくとも交通違反形式犯であっても、状況によっては生命の危険が無視できない。だから、住居侵入の違法性は交通違反に比べて実害は少ないし、「表現の自由」の法益が優先されるべきだ(12/22、追加記述)。この点に関しては、先にも言及した部分を下記に再録する。

昨夕(12/09)の朝日新聞夕刊(大阪本社版)のNPO法人・全国マンション管理組合連合会事務局長の談話、「判決には違和を感じる。集合住宅では管理上、ビラ配りへの対応は、拒否するにせよ住民全体の合意が必要だ。そうでないと「住民の知る権利」が奪われる。最近、犯罪の増加もあって、住民側が過敏になる傾向もあるが、だからといって有罪にするのは、表現の自由を侵しかねない」という意見に賛同する。http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20051210/p2

それで後半の部分。「抗議は命令する側にしてくれ」という意訳の点だが、これは自衛隊員やその家族は個人的な立場で理性において思想をもつべきでないという意見にも読めるが、如何? カントは『啓蒙とは何か』のなかで理性について論じている。以下引用する。

自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない。これに反して自分の理性を私的に利用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない、と。ここで私が理性の公的使用というのは、或る学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的利用というのはこういうことである、――公民として或る地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される。このような使用の仕方が、すなわち理性の私的利用なのである。(中略)
すると(軍隊の)上官から、或ることを為せ、と命じられた将校が、勤務中にも拘わらずその命令が適切であるかどうか、或いは有効であるかどうかなどをあらかさまに論議しようとするなら、それは甚だ迷惑であろう――彼はあくまで服従しなければならない。しかし彼が学者として、軍務における欠陥について所見を述べ、またこれらの所見を公衆一般の批判に供することを禁じるのは不当である。(『啓蒙とは何か』p10〜-11、岩波文庫

もちろん自衛隊員やその家族は「学者」ではないが、「学者」のように「理性を公的に使用する権利」を奪われるべきでないことは言うまでもないないだろう。つまり「理性の私的使用」によって命令に服することとは別の位相で、一市民(公民)として反戦チラシを読む機会の自由は、「表現の自由」として保証されるべきだと思う。この「表現の自由」を僕は、繰り返すが「商業チラシ」と同列に考えているので不愉快であれは廃棄すればよいことだし、身体に危険のないこの程度の他者の侵入には受忍限度として、デリダ風に「歓待」してもよいと思う。
ちなみに、12/10に僕の立場は表明しておりますが、念のために以下に再録しておきます(12/22、追加記述)。

一審の東京地裁では、「住居侵入罪の構成要件には該当するが、刑事罰を科すほどの違法性ない」と判断して無罪としていたが、僕はこれが法的にも妥当な判断と支持する。法的保護の比較考量からしても、「表現の自由」のほうが法益が高いと考える。東京高裁の有罪判決は、きわめて政治性が高い、反動的な判決であり容認できない!