「大江健三郎」をめぐって

裏の「mixi」でWさんがいい応答をしてくれましたので、表にも再録しておきます。
(Wさんの発言の引用は、了解を得ました。)

Wさんのお名前で想い出したのですが、大江の新制高校時代の国語の先生が渡部先生(元愛媛大学教授)といい、その先生の影響で大江は京大の中国文学を目指して浪人、その浪人中に終世の師匠になる渡辺一夫の本を読んで東大に入ったんだそうです。
ちなみに僕の同級生にその渡部先生の息子がいました。あなたが、その孫だったら面白いのですが……(笑)。


>大江さん自身が「戦後民主主義のチャンピオン」----もっと露悪的にいえば、ノーベル文学賞を受賞するまでの助走とその後が「裸の王様」状態であると、自覚的にかつアイロニーを込めてコギト3部作で描いているように僕は受止めました。自己批判として。(Wさんの発言)


このアイロニーの指摘には、半分は同意します(笑)。
というのは、大江の自己批判というか自己揶揄はすでにノーベル賞受賞前から作品で行われているからです。今回の「さよなら!」に出てくる「アカリ/光」を誘拐した新左翼の男が出てきますね。その男が出てくる初出の作品は『洪水わが魂に及び』ISBN:4101126127?(★『新しい人よ眼ざめよ新しい人よ眼ざめよ』1983年に訂正します) そこで、その男に大江の政治姿勢を批判させています。

それから「福田発言」については、今朝、下記のように加筆修正しました。

それと今回の小説で明らかになったことは、大江がユマニストというよりもモラリスト(「道徳家」という強い意味ではなく、「傍の観察者」として智恵を紡ぎ出すという意味)の「言葉遣い/振る舞い」だったということじゃないかな。

その辺が福田和也クンの「コスプレ発言」に照応しているのかもしれない。

とくに最終章で、世界の破局の「兆候」をカナリアのようにいち早く気づき書き記すという古義人の作業は、まさにモラリストそのものじゃないかと思えるが、同時にそれは大江が希望を繋ぐ(革命的ではないが)実践でもあり得ている、つまり大江が小説を今後も書き続けるだろうという(高橋源一郎の)意味においては、ふたたび大江の師匠・渡辺一夫の思想を継承したユマニストとも言いうるだろう。 http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20051115

僕は断続的な大江読者なので、宙返り(上)宙返り』のあとのコギト3部作はこの「さよなら!」しか読んでいないのですが(いま猛列に読みたい!)、大江は、「人生の習慣」として「戦後民主主義」を底において「ネタとしてベタ」に信じることによって、大江の/僕らの「底なしのニヒリズム」を回避してきたのではないでしょうか? あるいは「我らの狂気を生き延びる道」を指し示してきた。
「さよなら!」の中で、吾良(伊丹十三)が撮った映画静かな生活 (講談社文芸文庫)静かな生活』の強姦シーンの挿入をめぐる、娘・真木との会話ががありますね。このシーンは伊丹のモラリスト的な眼差しですが、だが同時にユマニスト大江もそう視ているわけでしょう。そして真木に「恐い」と言わせ、その後ふたたび武との会話でそのシーンを再-意味化する。大江はこのシーンを書くことで小説家として「自殺」することを回避してきたが、当の伊丹は自殺に至ったという組み合わせは象徴的ですね!


>だから余計に福田氏の発言に「なるほど」って思ったわけです。大江さん自身が自分の政治信条というか、その立場におさまりの悪さを抱えているような。(Wさんの発言)


戦後民主主義」を否定する保守派の福田は、大江を「ネタ」にして批判することによって、実は「ベタ」な「戦後民主主義」批判を展開しているというのが、僕の読みなのです。

「ネタ」と「ベタ」に関しては、葉っぱ64さんの洞察力に富むコメントを参考にさせていただきましたが、僕はうまく理解できていないかも知れない。改めて謝謝。一部、下記に引用します。

前日書いた、戦後民主主義をコスプレ(装置)として理解したのはルーマンの言うメディア(コスプレ)としての「真理」です。眩暈の症状が起きた時、括弧付きの「真理コスプレ」であっても、『信念の魔術』(こんな題名の超ロングセラーの自己啓発書がありますね)でベタに任意の一点を掛替えのない一点として凝視すれば、眩暈が治癒する。そういうことを僕は言いたかったのです。臨床的にアイロニカルな処方箋は効き目がない、常に吐気と眩暈の恐れに曝される。 そのような表層的な治癒でなく「外部としての廃墟」を受け入れる度胸があれば、多分何があっても恐れるに足りないと思うのですが、そんな超俗に僕は到っていない。でも、何故人々は廃墟としての真理を信じようとしないのか、真理は信じたいけれど廃墟は嫌だというコンテクストではあらゆる紛争はなくならないだろう。http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20051115

ところで、『さよよなら、私の本よ!』のもう一つの重要なテーマが三島由紀夫問題ですが、これについては今後の「大江ノート」のコラムで展開したいと思っています。

★本日は「書評の談」の曜日でしたが、後日の掲載とします。相変わらず「毎日新聞」の書評がいいですね。