大江健三郎の『さようなら、私の本よ!』をめぐって

葉っぱ64さんがブログで下記のようにコメントしてくれたのだが、文意がいまひとつ掴めない。黒猫房主のガソリン(ビール)切れか、アイロニカルな葉っぱ64さんのディスクールに眼を凝らす。いや兎のように耳を澄ますか? いや黒猫だけにヒゲをぴんと張るかあ?

『黒猫房主の語らい』(註:「Cafeの語らい」の間違い)でこんなことを書いています。

福田和也さんが『SPA!』で「この本を読んだら大江さんの禍々しさがよく表現されていて、とても興味深い。戦後民主主義は大江さんにとってコスプレに過ぎなかったのかと思うよ」というようなコメントがありました。 (某氏の発言)


福田和也君の「コスプレ」発言は挑発でしょう。ベタに受け取ってはいけません。
「禍々しい」のは初期作品から一貫してそうです。三浦雅士ふうに言えば「過激と静謐」が基調だと思います。(黒猫房主の応答)

 大江健三郎にとって戦後民主主義はコスプレに過ぎなかったものなら、眩暈の治癒としてベタな中心を設定することのメタファーと考えられるのではないか、勿論、治療としての効果を上げるためには任意の一点であろうと、ベタな凝視が要請される。戦後民主主義が大江の中でコスプレの装いをまとっているにしても、真剣でベタなものでなくては世界はそのまんま揺れて回転して不快のまま嘔吐を余儀なくされる。アイロニカルな嘔吐に耐えるにはそれ相応の覚悟がいりますねっと、今は眩暈が過ぎ去って快の状態で一日遅れのブログを書きました。人差し指がコスプレの代用になったみたい。トンボ取りの逆応用でした。(葉っぱ64さんのコメント)http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20051114

それに対して僕は次ぎのように応答した。

さて、大江健三郎の新作へのコメントの応答ですが、福田和也の『SPA!』の原文を僕は読んでいないので某発言者の引用から類推しての僕のコメントなのです。僕はこの20代の某発言者が福田和也の発言に戸惑っているというか、「ベタ」に受け取っているようなのが気になったのです。福田のおそらくはアイロニカルな発言が「ベタ」に伝わってしまう。そういう事態については宮台真司もどこかで発言していますね。
おそらく大江がベタに信じている戦後民主主義への批判は、古義人(大江健三郎がモデル)じしんの自己批判(?)として、吾良(伊丹十三がモデル)からの伝聞として椿繁に語らせています(p90〜p92)。
この椿繁のモデルが誰かわからないんですよね? 実在するのかな? あとのモデルはすべてわかるのだが……「イーヨー」に聞いてみようか(笑)。
繁と古義人がcouple(pseudo-couple、おかしな二人組)であったなら、大江と伊丹もまたpseudo-coupleであったに相違ないでしょう。 それと今回の小説で明らかになったことは、大江がユマニストというよりもモラリスト(「道徳家」という強い意味ではなく、「傍の観察者」として智恵を紡ぎ出すという意味)の「言葉遣い/振る舞い」だったということじゃないかな。
その辺が福田和也クンの「コスプレ発言」に照応しているのかもしれない。
とくに最終章で、世界の破局の「兆候」をカナリアのようにいち早く気づき書き記すという古義人の作業は、まさにモラリストそのものじゃないかと思えるが、同時にそれは大江が希望を繋ぐ(革命的ではないが)実践でもあり得ている、つまり大江が小説を今後も書き続けるだろうという(高橋源一郎の)意味においては、ふたたび大江の終世の師匠・渡辺一夫の思想を継承したユマニストとも言いうるだろう。
他日、改めて僕はこの小説の作品論を書きたいと熱望していますよ。果たせるかな! それが13歳から大江を気にかけ、断続的にではあるが40年近く読み続けて生きてきた僕の証でもあるだろうと思うから(なんて、大仰な!)。

★追加記述★葉っぱ64さんから丁寧な応答がありましたので、この本文でリンクを張ります。謝謝。http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20051115
★追加記述★11/16に加筆修正しました。