個人の責任と法的責任


■責任に向き合うこと
usauraraさんのブログへの応答を部分的に再録しながら、4/19の責任問題の続き。

倫理の問題が「個人の倫理」としてのみ問われているから、つまり「審問の言葉」として問うているからを息苦しく感じられて反発を呼び込んでいるようにも思いますね。

それで問われるほうは「告白」を強いられたように感じるが、いくらその悪(荷担)を認めて懺悔してみたところで、その見殺してしまったことは救済できない。
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20070419

上記の引用は4/19に僕が書いた文言だが、僕が言っているのは、告白して悪(荷担)を認めて懺悔しても、「その見殺してしまったこと=罪」は解消されない、残り続けるよ、ということなのだった。
それで、そのことの自覚の上にたって「社会の倫理/社会を組み替える倫理」へ向かうべきだという含意でした。それで「仮に見殺しにしないで、そのホームレスの人を救ったとしても他のホームレスの人々の生存はどうなのかは、kannjinaiさんの問題設定では問われていない」とも書いたのだった。
つまり、告白や懺悔による「個人のみの倫理」に回収/解消すべきではない、という意見でした。これはまた、例えばアフガンに200円の寄付をしても、それで責任が解消されるわけではない、ということも含意している。誤解のないように書き添えるが「個人の倫理」を否定しているのではなく、そこからしか始まらないと思う。

因みに、x0000000000さんもkannjinaiさんも「懺悔せよ」とは一言も書いていない。むしろコメントしている他の方々のエントリーにそれを感じて、上記のような感想を書いたのだった。しかしそのように感じたのは、僕の問題であり誤読だったのかもしれない。
それでx0000000000さんの問題意識については、mojimojiさんが論点整理されており、ここに(「道徳的詐術とは何か」)言い尽くされていると思うので、なるほどと思った。けれども、mojimojiさんが言われる

募金をしないとして、では「何を」するの? という問いに自分を開くことである。これはつまり、正しさを、実現された正しさの水準(静学的正義?)ではなく、正しさに向けた運動の水準(動学的正義?)で問うことである。
(「道徳的詐術とは何か」より http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070421/p1

という意見には賛同だが、僕はそれ それだけをいつも念頭において日々を生きているわけではないのも事実だ。


■法的責任についての若干のコメント

この間の議論で、「法的責任」や「無限責任」が言われた。しかし「法的責任」を持ち出して反論する人でも「道義的責任」は認めている。これはすでにして他者に対して責任があることを認めていることになる。
しかし、そこで「責任がある」ことと「責任を負う」ことの差異において、法的責任論は法益として責任を負う範囲を限定しているのだろうと思う。つまり法的な義務、法的な責任関係は「相当因果関係」を越えた事柄には、その人の責任を問わない、というのが近代法の原則だろう。その趣旨だと思う。*1
しかしこの「相当因果関係」というのは「責任の無限連鎖」を制限するための法理であって、制限することによって不責事態を回避し責任を確定することによって「法益」を得るための便法である、と思う。
これが道義的責任と区別された法的責任論だと思うが、法的責任論における「相当因果関係」の「相当性」とは実はその社会の道義的責任論(感)に影響されているとも思う。

さて、道義的責任論が「私にも責任がある」という言明であるとすれば、無限責任を認めることにつながってゆくだろう。
しかし無限責任が責任の不発化をもたらすと言われるのは、「皆に責任があるのだとしたら、私だけに責任があるのではない」、だから「私ではなく他の人が責任をとればよい」という回避の言明を呼び込むからだ。しかしこれは「皆に責任があるのだから、私には責任がない」という<責任の不存在>を論証しているわけではない。責任はあり続ける。そしてどのように責任を負うのか/負わないのかということが、「私」に問われている。(★追記:しかしその責任の負い方は、さまざまであってよいと思う。) そしてどのようにその責任に向き合うのか/向き合わないのかということが、「私」に問われている。

*1:法理論としては、条件説や因果説など細かい議論があるのは承知している。