不作為による責任問題


この間、「G★RDIAS」というブログで問題になっている責任について、下記に引用しながら若干のコメントをしてみたいと思う。
「できる」はずなのに「できない」という抗弁は、「したくない」ことの言い訳になっていると批判することは正当だ。だがその批判だけでは「なぜ、したくないのか」を解きほぐしていない。こういう問題は遍在しているし、その問い方はもっと洗練されてよいと思う。
これは、僕らの<いま・ここ>の<倫理の現在形>に関わっている、象徴的な課題だと思う。

「G★RDIAS」というブログで介護問題での責任論「姥捨て山問題」がこのところ話題になっていた。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070406/1175824830

話が展開するにつれてズレや拡散がで出て経緯を全部把握するのが困難になってきたところで、
新たにkannjinaiさんが新しい定義を出してこられた。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070417/1176810310

寒い夜、道を歩いていると、ホームレスの人が道ばたで倒れていた。私は警察を呼ぶこともせず、

救急車を呼ぶこともせず、黙ってそこを通り過ぎた。夜でもあり、人気は少なかった。

この場合、「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか。


(中略)


介護問題での「本当は出来るのでしょう?」は、誰が誰に対してどのように語るのか

ということが述べられないままで漠然とした問いだったために、その問いかけが逆に

介護している者を追い込む場合もあると危惧する意見も出ていたが、

http://d.hatena.ne.jp/font-da/20070407

そのあたり=「誰が誰に対してどのように語るのか」を絞っていけばうまく議論が出来るのではと思う。

(余談だけれど、このfont-daさんのエントリーはこういう問題を語るときには意義のある

とてもいいエントリーだと思う。)


http://d.hatena.ne.jp/usaurara/20070418/1176880755 より引用(ぜひ、全文をお読みください。)


この間、このkannjinaiさんの課題に対していろんな方が回答やコメントしている。それぞれに頷く論点があるが、僕はusauraraさんのブログにコメントしたので下記に再録しておく。

>「誰が誰に対してどのように語るのか」を絞っていけばうまく議論が出来るのではと思う。(usauraraさんの発言)


同感ですね。もともとの論点がズレてしまったと思います。
あと倫理の問題が「個人の倫理」としてのみ問われているから、つまり「審問の言葉」として問うているからを息苦しく感じられて反発を呼び込んでいるようにも思いますね。
それで問われるほうは「告白」を強いられたように感じるが、いくらその悪(荷担)を認めて懺悔してみたところで、その見殺してしまったことは救済できない。
仮に見殺しにしないで、そのホームレスの人を救ったとしても他のホームレスの人々の生存はどうなのかは、kannjinaiさんの問題設定では問われていない。
問題は「社会の倫理」として、いかに見殺をしないように救済すべかという論点をたてるべきなんです。
但し、見過ごした/していることで、「荷担している」ことを自覚することは必要だと思います。そこには、「存在に対する倫理」の端緒があると思います。そこに/そこから、「個人の倫理」の可能性があるようにも思います。そしてその「個人の倫理」を分有して社会化することが、例えば「富の分配」としての増税とか、国際援助になるのだろうと思います。


この責任問題に関連して、以下参照論考として大澤真幸の「責任論―自由な社会の倫理的な根拠として」(「論座」2000年1月号掲載)を抜き書きしておく。

責任が原因に包摂されてしまうならば、その原因は原理的には無限に遡及できてしまうので、責任という概念は無意味になってしまう。それ故、責任という概念が有意味であるとすれば、それは原因とはまったく独立の固有の意味を担っていなくてはならない。
責任responsibilityは、応答可能性、他者への応答可能性を含意している。他者が否応がなく応答を迫ってくるようにみえるとき、そこに責任が発生するのだ。
だが、他者からの呼びかけに人が応えずにはいられなくなるのはなぜなのか? また、そのとき、人には何について語ることが要請されているのか?


「他者からの呼びかけに人が応えずにはいられなくなるのはなぜなのか? また、そのとき、人には何について語ることが要請されているのか?」という問いは切実だと思う。だが、「他者からの呼びかけに人が応えずにはいられなくなる」という事態が訪れない場合、つまり「自分には関係ない」とか「関わりたくない」という拒否の態度に対しては、どうすればよいのか? 社会としてなにがしかの「義務=強制」が要請されるのではないのか?


大澤はカントの直面した困難として、

カントは『純粋理性批判』で、「世界は因果関係のネトワークに埋め尽くされている」という命題と、「因果関係に規定されない例外物(自己原因となりうるもの)が存在している」という命題とは、ともに真になってしまう、と論じている。因果関係に規定されないものとは、自由意志のことである。前者の命題に立脚するとき、見出されなくてはならないことは、「原因」である。後者の命題に導かれるのは、「責任」である。原因の論理と責任の論理は互いに矛盾するが、にもかかわず、両者はともに維持されなくてはならない。これがカントの結論である。


応答可能性としてのresponsibilityは、強制されない自由意志に基づくものである。だから「原因」から結果する「責任」を限定する、あるいは回避する「義務」としてのresponsibilityとは位相を異にする、ということであろう。
つまり、自由意志に基づいて「為すべきことを為せ」という当為命題であるが、それはつねに/すでに可能であるのか? 「存在」と「当為」の乖離。


大澤は、責任の所在の透明化に伴う「自己決定権」の顕揚が、却って「帰責ゲーム」をもたらして「自己決定論が期待していたような道徳的に優越した個人―「それは私の責任だ」という個人―ではなく、むしろ、そういった道徳的理想の対極にイメージされる個人―「それはあなたの責任だ」と言いつづける個人―を結果して、責任のジレンマを引き起こすという。

責任をめぐるわれわれの困難は、こうである。一方で、われわれは責任を透明化したり、厳格化しようとする強い欲望に取り憑かれている。だが、他方で、そうした欲望が強ければ強いほど、まるでそれを相殺するかのように、責任は、宛先を失って人々の間をいつまでも巡回し続けたり、あるいはどこにも到着することなく消え去ったりしてしまうのだ。「責任」がおかれているこうしたジレンマを、「責任の不発化」と呼んでおこう。/しかし、「責任」こそは、あらゆる倫理の可能性の基底である。とりわけそれが「自由」を根拠とする倫理の基礎である。そうであるとすれば、われわれは、こうした困難に直面している責任の概念を、何らかのやり方で鍛えなおさなくてはならない。


法的な帰責はなくとも自分にも「責任」があるかもしれないという、「負い目」からではない「自由」を根拠とするその感情は、「あらゆる倫理」の端緒でありチャンスだと思う。

追記(07.04.20)。
katsumushiさんから下記のようなTBでのご指摘をいただいたので返答しました。

「感情」は関係なくて、カントがいったのは、道徳法則に基づく(根拠とする)行為を我々はする、と言ったのでは?

あらゆる倫理のチャンスではなくて、我々は自然法則と同じように道徳法則に基づいて行為すると言ったのだ。

要するに、我々の行動に対する認識を分けて考えた。
http://d.hatena.ne.jp/katsumushi/20070419

ご指摘ありがとうございます。確かに、ご指摘のようにカントは「我々は自然法則と同じように道徳法則に基づいて行為すると言ったのだ」と思いますが、僕の感想ははこの場合カントではなく、大澤真幸の指摘する「責任の不発化」に対しての感想なのでした。つまり責任を限定したり回避しようとする心情に対して、<「自由」を根拠とするその感情=自分が自由であろうとするならば>という言い方をしてみたのです。しかしカント先生は「人間の自然の傾向性」を撥ねのけて義務に従うことこそが「自由」だと言ったのですね。


また関連として、斎藤純一は「政治責任の二つの位相」(『「戦争責任と「われわれ』所収、ナカニシヤ出版)の中で、「アテンションの配分=配置」の不在が問題であることを指摘している。「正義の感覚」は、すでに確立され、現に妥当している規範の方向づけれた感覚であるが、「不正義の感覚」は、当事者が甘受し堪えてしかるべき「不幸」や「不運」と見なされてきた事項を「不正義」と受けとめ直す感覚――不運と不正義との間に引かれてきた境界線を疑問に付す感覚、だと説明している。
そして斎藤は、「集合的責任」(アーレント)は限定的であるが「普遍的責任」は「われわれの関知するところではない」という「暗闇」の領域をつくらないようにする配慮、私たちのアテンションをある閉域のなかに境さないという意味で「普遍的」なのである、と定義している。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapekore58.htmlを参照