偽装事件

12月14日は仕事を休んで、9時半から構造計算偽装事件の国会証人喚問放映を注視していた。故あって僕も2年前10月に共同住宅を購入した身なので人ごとではないが、いまのところ自治会からの動きはない。いちおう僕の共同住宅は大手ゼネコンによる施工なのだが、実質は下請けが施工していることが多いので安心はできないが、こういう場合大手ゼネコンのブランド力が頼りになるかどうかである。
しかし今回の事件で明らかになったのは、「専門家の倫理性」ということであろう。「職人気質」と言われるのは、細部の技量に拘るだけではなく、効率を度外視してでも品質のよいものを仕上げるという気質のことを言うのだと思っているが、「安かろう悪かろう」という警句はやはり真理を突いているのか?「安普請」という言葉があるが、この場合でも建築素材や内装を安く上げるていどのことであって、基礎工事や手抜きをして家が倒壊する恐れを含む概念ではないと思う。
しかし価格競争との兼ね合いで、基礎工事を手抜きをすることで工費や工期(人件費)が削減できるという「経済設計」なる妖怪が横行しているわけである。
国会の証人喚問を注視して、彼らに「事の重大さ」への畏れが感じられないのはなぜだろうと思った。彼らはたんとんと宣誓書を読み、手が振るえることもなく書名捺印している。
ロッキード疑獄」の国会証人喚問の際に、ある証人が大きく手を振るわせながらサインしている姿を僕は想起していたが人命の危険という観点からすれば今回の事件のほうがはるかに重大である。しかし今回の証人たちには各領域での専門性への倫理観が欠如しているとしか思えない。ましてや財産保全を図っている木村建設社長や総研の河内所長には、自己保身しかない。
そのことを象徴しているのは姉歯建築士が証言したように「自分ひとりでは(今回のことは)起こせない」ということだろう。姉歯建築士にすれば、自分は生活(自己保存)のためにやむを得ず偽装をしたが、建築審査機関がちゃんとチェックをしていればその時点で阻止できたということだろう。その点で彼の責任の半分は公的な審査機関に預けられているという判断があるのかもしれない。
ところでこの自己保存と公共性、「経済設計」という「計算的思考/理性」などを先日の「哲学的腹ぺこ塾」のテキストに引きつけてみよう。

カントの概念は二重の意味を持っている。超越論的・超個人的自我として、理性は人間どうしの自由な共同生活という理念を含んでいる。その共同生活のうちで、人間は普遍的な主体として自己を組織し、純粋理性と経験的理性の間の矛盾を、全体の意識的連帯のうちに止揚する。そういう共同生活は真の普遍性の理念、つまりユートピアを表明している。
しかしそれと同時に理性は、計算的思考の法廷を形づくる。計算的思考は、自己保存という目的に合せて世界を調整し、対象をたんなる感覚の素材から隷従の素材へとしつらえる以外にいかなる機能をも知らない。一般的なものと特殊的なもの、概念と個別的事例とを外側から相互に一致させる図式論の本性は、つまるところ現行の科学のうちでは産業社会の利害に他ならないことが証明される。存在は、加工と管理という相の下で眺められる。一切は反復と代替の可能なプロセスに、体系の概念的モデルのためのたんなる事例になる。動物はいうまでもなく、個々の人間もまたその例外ではない。管理を旨とし物象化を事とする科学と個々人の経験の間の葛藤、公共精神と個々人の経験の問の葛藤は、環境によって予防されている。もろもろの感覚は、知覚が生じるよりも前に、いつもすでに概念装置によって規定されている。(p130-131、『啓蒙の弁証法』ホルクハイマー/アドルノisbn:4000040545

僕は、この「計算的思考」をカントのいう「理性の私的使用」と読み替え、「公共精神」を「理性の公的使用」と読み替えるとよいと思っている。この公共精神は理性(計算的理性/道具的理性)の自己批判の契機となる。この自己批判/倫理性とは、今日では専門家における科学的理性に強く要請されている。
ちなみに、柴谷篤弘に『反科学論』(ISBN:4622016745 みすず書房)、『あなたにとって科学とは何か―市民のための科学批判』(みすず書房)は、その専門性を問う好著である。

なお上の画像は、僕の住んでいる共同住宅の前に建設中の基礎工事の鉄筋骨組みである。大阪市内では最大級の共同住宅になるそうだ。