啓蒙とは何か
啓蒙とは何か、それは人間が、みずから招いた未成年状態から抜け出ることだ。未成年状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分で理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語というものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち、「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。
カント「啓蒙とは何か」(中山元・訳)より
だが、果たして僕らが「未成年状態」から脱することは可能なのか。
例えば「自己決定」の宣揚が権威による「誘導」の別名だったり「自己責任」という「責任転嫁」だったりする、昨今の情況を鑑みるにつけ、これは「啓蒙された欺瞞」ではないかと悲観的にもなるのだが……(「尊厳死法」や「国民投票法」の問題など)。
カントの「好きなだけ何ごとについても議論せよ、ただし服従せよ」というあまりにも有名なフレーズは「統治の原則」にまで及んでいるが、どう解釈すべきなのか?
フーコーによれば「結論部で、カントは、フリードリッヒ二世に対して、ほとんどあらかさまに、一種の契約を提案することになる。それは、理性的な専制と自由な理性との契約と呼ぶこともできるようなものだ。自律的な理性の公的で自由な使用は、服従の最良の保証となるであろう、但し服従すべき政治的な原理がそれ自身普遍的理性に適合するものであるという条件において、というのである」(フーコー「啓蒙とは何か」、『フーコー・コレクション6』ちくま学芸文庫、p374)と書いているが、「理性的な専制」が転じて「道具的理性」による抑圧に頽落しないという保証が、どこにあり得るのか?
だからこれは逆説的に、普遍的理性に適合しない政治原理に対しては「理性の公的使用=自律」において、批判/不服従/抵抗せよ、と読まれてもよいように思われる。ならば、僕らが「批判/不服従/抵抗する主体」を獲得した得たときこそが、「未成年状態」からの脱出を可能にするのかもしれない。
もっともカントは「抵抗せよ」などとは一言も言っていない。「知る勇気をもて」すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」と言っているだけなのだが、今日において「理性の公的使用」を行使するということは、「抵抗する」ことに他ならないのではないか?
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