心理学的には、ファシズムとナチズムはいかなる快楽主義的人生観よりもはるかに強固なのである。


ヒットラーは「諸君には闘いと危険と死を約束する」と言ったそうだが、わくわくする愛国心はすすんで自己犠牲に身を躍らす。日本では<散華の思想>という「美しい>」思想が、かつてあったが(いまも?)……魅了されないようにね!

ヒットラーには快楽主義的人生観の誤りがよくわかっている。前大戦以来、ほとんどの西欧思想、というより「進歩的」思想にいたってはそのすべてが、人間は安楽と安全と苦痛をのがれる以上のことは望まないと、暗黙のうちにきめてかかっている。こういう人生観には、たとえば愛国心とか武勲といった思想の存在する余地はない。社会主義者は自分の子供がおもちやの兵隊で遊んでいると動転するが、だからといって代りのおもちやを見つけてやることはできはしない。おもちやの平和主義者というのでは、どうにも格好がつかないのだ。ヒットラーは楽しみを知らない人間だけにこれが珍しくよくわかるので、人間が欲しがるのはかならずしも安楽、安全、労働時間の短さ、衛生、産児制限、また一般的に言って常識といったものばかりではないということも、わかるのである。人間は、すくなくとも時によると、闘争とか自己犠牲をも望むものだし、太鼓とか旗とか観兵式などが好きなのは言うまでもない。経済理論としてはともかく、心理学的には、ファシズムとナチズムはいかなる快楽主義的人生観よりもはるかに強固なのである。おそらくスターリン軍国主義社会主義についても同じことが言えよう。三人の偉大な独裁者は、いずれもその国民に耐えがたい重荷を強制することによって、自己の権力を強化したのであった。社会主義ばかりか資本主義のばあいにも、これはしぶしぶながらにせよ、国民に向って「諸君に幸せを約束する」と言っているのに対して、ヒットラーは「諸君には闘いと危険と死を約束する」と言う。そしてその結果は、全国民が彼の足下に身を投げ出すのである。あるいは国民もそのうちにうんざりして、前大戦の末期のように心変りするかもしれない。殺撃と飢餓が何年もつづいたあとでは「最大多数の最大幸福」というのはすばらしいスローガンになる。だが現在のところは「終りなき恐怖よりも、恐怖とともに終ろう」というほうが効くのである。このスローガンを考え出した相手と闘っている以上、れわれはその心理的効果を過小評価してはならない。

「書評――アドルフ・ヒットラー著『わが闘争』」(『オーウェル評論集』p220〜221,岩波文庫