自由民権運動と近代的自我?


★07/01/24〜25に加筆訂正しました。

このところよそ様のブログにカキコして、本宅の更新をさぼっている黒猫でした。

ぜひ t-hirosakaさんの『自由民権』(色川大吉、岩波新書)の鋭い書評をお読みいただきたい。
その書評のなかで、t-hirosakaさんは次のことを問題にされている。
少しながくなるが、引用しよう。

私が愕然としたのは、例えば次のような文章である。色川氏は「豪農主導の在地型の民権結社を検討して」次のように言う。

長い封建支配によってひきさかれ、抑圧され、疎外されてきた人民が人間としての全体性を回復したいと熱望してきたことがわかる。(p.49)

自由民権運動の担い手(この場合は豪農)が、人間としての全体性を回復したいと熱望してきた人民、と表現されていることに違和感を憶える。これは20世紀になってからさかんに論じられた自己疎外論の言葉だと思うからである。

いったい、明治のはじめの頃の「人民」が自分たちを「疎外されてきた人民」であり、「人間としての全体性を回復したいと熱望して」いる者として自覚していただろうか。もちろん、中江兆民や北村透谷なら、ルソーやカントやミルを読み込んで、先駆的にこうした発想を持ち得たかもしれない。その可能性は否定しないが、その数はごく少数だろう。「人間としての全体性を回復」という表現は、兆民の言う「回復的の民権」を念頭においてのことだろうとは思うが、それにしても「回復的の民権」と「人間としての全体性を回復」することとは同じことだろうか。

色川氏は次のようにも言う。

自由民権期に続出した叙事詩的なかずかずの英雄物語は、すべて民衆の中の小さなヒーローたちのものであり、民権結社を背景にして創出されたものである。私はこれを民衆の精神革命であったといいたい。また文化革命であったとも思う。(p49-p50)

人間としての全体性を回復したいと熱望してきた人民による未完の文化革命、これが色川氏の、「自由民権運動」観である。

これは色川氏自身の現代の政治課題、あるいは歴史観を過去に投影したものではないのか、と思わざるを得ない。

そのような批判に対して僕がコメントした内容とt-hirosakaさんの応答を下記に転載する。

# kuronekobousyu 『なるほど。色川大吉は、革命ロマン主義的に明治の自由民権運動を読み込んでいるという批判になるわけですね。それは、その通りかもしれないが……。


>それにしても「回復的の民権」と「人間としての全体性を回復」することとは同じことだろうか。(t-hirosakaさんのコメント引用)


兆民の「回復的の民権」は「恩賜的の民権」に対抗する理念として、カント的に言えば「事実の問題」としてではなく「権利の問題」として「回復的の民権」を唱えたのではないかと推量します。この視点はルソーの「社会契約論」の「人は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている」に相即していると思われます。
兆民の民権は被差別民も射程にいれたものであり、「生存権」の先取りとしての民権でもあったのではないでしょうか? その意味ではルソーよりも兆民のほうが射程が広い(深い)とも言えるかもしれませんね。
兆民に「人間としての全体性を回復」するという視点の先取りがあったかは不勉強ですが、ルソーのロマン主義には「疎外論」の予感はあったように思います。』

# t-hirosaka『黒猫房主さん、コメントありがとうございます。
おっしゃるように「ルソーのロマン主義には「疎外論」の予感はあった」と思います。そして兆民ほどの人ならそれに気付いていたからこそ「回復的の民権」という語を選んだのかもしれません。また、兆民訳の『民約論』はかなり読まれていたそうですから、民権家の中に疎外論的視点を持つ人がいなかったとは限らない、とも思います(透谷の「内部生命論」は明らかにロマン主義ですし)。
ただ、私は次の2点で不審に思いました。
第一に、色川氏の評言は兆民や透谷についてではなく、関東の豪農たちの結社活動を指して言われているということです。色川氏の整理によれば、豪農たちの結社は単に政治活動だけではなく、学習運動、相互扶助、勧業・勧農、愉楽・享受、交流・懇親を兼ね備えていたということですが(色川、p40)、それらはみな江戸時代にも講や寄り合いというかたちで行われてきたものであって、これをもって豪農たちが近代ロマン主義に源泉を持つ人間としての全体性の回復という理念を目ざしていたとするのは明らかに行き過ぎです。
第二に、明治政府の進めていたのが擬復古的ロマン主義による近代化ですから、対抗運動として立ち上がった自由民権派の理念が同型の疎外論である可能性は低いのではないかと思われるのです。』
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20070122

t-hirosakさんの応答に刺激を受けて、大昔に読んだ気のする色川大吉の『明治の文化』(岩波書店、1970年初版)を読み始めた。
その「序」にこうある。

近代日本における民衆思想の形成(変革)の道すじは、知識人の思想形成のそれとは、法則的にまったく異質なものであり、そのことを相互に理解しあえなかったところに大きな不幸があったのだという確信に私は到達することができた。(p14)

そして1968年の夏に、色川大吉西多摩郡のとある山村の調査で、あの「五日市憲法草案」を発見する。そしてその感動を記す。

この調査によるもう一つのおどろきは、日本における近代的自覚(近代思想)への歩みが、世の明敏なインテリ評論家とはちがって、(その根拠となった日本の知識人の思想形成の方法ともちがって)、底辺における泥まみれの伝統の中から、民衆自身の体験にもとづく支配思想の独自な読み替え=伝統の革新的再生を通じて(西欧思想はその読み替えの刺戟=きっかけをあたえるにすぎない)、着実に踏みだされていたということの実証なのである。(p48)

ここで色川は「知識人の思想形成のそれとは、法則的にまったく異質なもの」として、民衆の独自性を言挙げしている。また民衆にとって「西欧思想はその読み替えの刺戟=きっかけをあたえるにすぎない」のであって、逆に言えば「底辺における泥まみれの伝統の中」にはすでにその西欧思想を受けとめる力(潜在性)が育まれていたと言いたいのだろう。
この辺りの評価と関連して、 t-hirosakaさんは「豪農たちが近代ロマン主義に源泉を持つ人間としての全体性の回復という理念を目ざしていたとするのは明らかに行き過ぎです」と批判されている。確かにこの豪農たちに「人間としての全体性の回復という理念」があったというのは大仰すぎるのかもしれない。しかしあえて「歴史のダイナミズム」として、その予兆を色川は期待を込めて「民衆史」に見ようとしているのだろう。*1
例えば、農民一揆を起こす感情は、ギリギリの生存をかけた抵抗運動であったろうが「疎外感」からだっただろうか。その点で、大江健三郎の『万延元年のフットボール』(1967年)を連想してもよいかもしれない。大江健三郎は万延元年(1860年)に起きた農民一揆とその100年後の安保闘争をダブらせるように革命の想像力とその敗北を反復するのだが、これは色川大吉が民衆史に読み込んだモチーフと通底しているのかもしれない。

ところで「近代的自我」とか「ロマン主義」という概念はヨーロッパ経由によるものだと考えられがちだが、世界史的な共時性というのはあるのではないだろうか。これは梅棹忠夫の「文明の生態史観」的に言っても、ヨーロッパと日本の文化的共時性はあるらしい(と言っても「構え」が似ているということで、まるっきり同じということではない)。*2
それでちょっと思いついたのが、ルソーよりちょっと前の日本のシェークスピアと言われた近松門左衛門(1653〜1725)の世話物には、近代的自我の萌芽があるのではないだろうか。僕が思いつくぐらいだからすでにそのような研究はなされていよう(何方か知っていれば、ご教示ください)。
この17世紀終わり頃から18世紀初頭にかけての「元禄時代」は、歴史区分的には「近世」と呼ばれているが、すでに近代社会を成立させる物質的〜精神的条件は育まれていただろう。

因みにロマン主義の鼻祖はルソー(1712〜1778)とも言われるが、それはその前の17世紀のラシーヌなどと読み比べるとよくわかるだろう。その意味で最初の「告白文学」としてのルソーの『告白』(1766頃)は象徴的だ。「告白すべき内面」を有した個人の登場。「山歩き」や鑑賞としての「自然」を発見したのもルソーだったと言われているが……。

自由民権 (岩波新書 黄版 152)

自由民権 (岩波新書 黄版 152)

明治の文化 (岩波現代文庫)

明治の文化 (岩波現代文庫)

文明の生態史観ほか (中公クラシックス)

文明の生態史観ほか (中公クラシックス)

*1:僕は色川大吉氏のことはよくは知らないのだが、「民衆史」という方法意識は、歴史の周辺部分(それが、疎外?)の(底辺の)民衆を掘り起こすという感じなんだろうか。同氏は、自分の歴史観を纏めた本を出しているから、そちらに当たればよい。『底本 歴史の方法』(洋泉社新書)。しかし「民衆」の底辺をどの辺りまでを射程にいれているのか、というのが疑問ではある。当時の「豪農」というのは、かなりの教養を有していたのではないだろうか、すくなくとも「底辺の農民」ではないだろう。

*2:1957年「文明の生態史観序説」が出された当時は、唯物史観の全盛期で「保守反動の理論」だと批判されたそうだ。それが、最近は「複雑性」の理論から再評価もされているらしいとか? 生物の生活様式は環境との相互作用で変化する、と考える植物生態学の遷移理論を人類文明史へ応用した点がキモで、大陸東端の日本と西端の西ヨーロッパは辺境ゆえ、古代に遅れをとった。しかしやがて封建制から高度資本主義社会を自生的に生む出す「平行進化」を遂げたという視点。