「キャラ」と「萌え」の考察①

11/232005-11-23 - シャ ノワール カフェ別館テヅカ・イズ・デッド―ひらかれたマンガ表現論へ』伊藤剛、NTT出版)[掲載]2005年11月13日[評者]中条省平http://book.asahi.com/review/TKY200511150265.htmlへの黒猫房主の「恣意的感想」に対して、<萌え>をめぐるコメントで盛り上がったので、せっかくですから再録して僕の見解を併せてアップしておきます。各位のご意見・ご感想を希望します。

#葉っぱ64さんhttp://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/
キティの店で訊いたことがあるのですが、どうして「キティ」はこんなに何十年と人々に愛されるのか、いまだに売れ続けている。彼は「キティには物語がないからです」って即答しました。物語性のないものに快楽する。それを“萌え”というのかと、何となく納得しましたが、中条さんのキャラクターとキャラの峻別は概念として、そんなもんかと思うのですが、「キティの謎」はキャラだけでは捉まえられない残余がありますね。その残余がナンドロウという疑問が常にあります。「くまのぬいぐるみ」もそうですが、「癒し」がキーワードなんでしょうか、「大きな物語」はうざったいものとして「癒し」にならない。ただ、指輪物語は、ハリーポッターは?物語がある。キャラクターが立ち上がっている。メルヘンという挿入項ですが、占いを含めて、この三点セットが、いつまでも欲望されている。どうしてなんだろう。

#黒猫房主
早速のコメントありがとうございました。
「キティの謎」のコメントに触発されて、さきほど「この「内面性/物語性」がないがゆえに、「萌え」読者はそれぞれの妄想/物語を補完することの自由さがいい(萌え)のかもしれない」を本文にて加筆しました。

#葉っぱ64さん
夏目さんが「萌え」についてのレジュメをアップしていますね。長文です。興味ある方はどうぞ、結局、一言では言えないですね。
http://www.ringolab.com/note/natsume2/archives/004001.html#more

#マンガ学への挑戦―進化する批評地図 NTT出版ライブラリーレゾナント003夏目房之介さんhttp://www.ringolab.com/note/natsume2/archives/004000.html
はじめまして。同世代(僕は50年生)として興味深いコメントです。ただ……
>1980年代後半ころに、「キャラクターからキャラへの移行」が起こり、
……という要約(引用?)はやや誤解を生みやすいように感じました。じっさいは〈キャラとキャラクターは密接不可分〉(『テヅカ イズ』120p)な二重性で、様々な態様で顕現したり潜在、抑圧されたりしてきた、というべきでしょう。伊藤は〈八〇年代後半以降、人々の「読み」の多様化、キャラクター表現の多メディア化などによって、テクストからキャラクターが遊離して存在することが一般化し〉(121p)たと慎重にいってますね。たしかに〈ストレートな「回帰」ではない〉ので〈描画レベルの「混乱」〉(同上)が顕れると書かれていて、つまり一見「萌えキャラ」は多くアニメ絵的な記号性が強い(ことが多い)ので、とくに僕の世代には抵抗が強い。けれど、原・キャラ性は戦前からあるし、アトムやそれこそ吾妻ひでおにもあるわけです。僕は彼の本を読んでから「萌え」を考えるためにいくつか読みましたが、一種の修練(笑)で少し魅力を追体験できる気がします。外見の違いと言説の圧力で必要以上に「理解できない」と思い込んでいるのかもしれません。おたく共同体の「外の連中にはわからない」という意識の強さもあるでしょうし。長文失礼しました。

#黒猫房主
夏目房之介さま。こちらこそ、初めまして。
わざわざ言及いただきお礼申し上げます。

>1980年代後半ころに、「キャラクターからキャラへの移行」が起こり、
・・・・という要約(引用?)はやや誤解を生みやすいように感じました。

1980年代云々の太字部分は、すべて中条氏の引用部分ですが、引用の仕方の責任はもちろん僕にあります。このエントリーを書いた後に夏目さんのご指摘の点は先のレジュメで読ませていただきましたので、追加事項としてTBさせていただきました。
但し僕の「書評への恣意的感想」という手法は、あくまで「書評それ自体」をテキストとして読むことの感想なので、その書評子の書評内容と原書との照応をテーマにしているものではありません。

#夏目房之介さん
黒猫房主さま
あ、大変失礼しました。単純な間違えをしてました。中条さんの書評は読んでましたが、うっかり原書の引用かと思ってしまい・・・・申し訳ありません。

#黒猫房主
夏目房之介さま。またまたご丁寧なコメントありがとうございました。それで思い直したのですが、「キャラ」とは永井均ふうに言えば<端的性>ではないのか? つまり「キャラクター」のような時間性をもたない<いま、ここ>の輝きが<萌え>をもたらすのではないでしょうか? 思いつきの域を出ないのですが……。

#葉っぱ64さん
横から失礼します。夏目さんのブログには一度御邪魔コメントをした葉っぱ64です。
黒猫さんの言う<端的性>ですか、成程、腑に落ちるところがあります。鈴木淳史の「美しい日本の掲示板」でしたか、2ちゃんねるのカキコと江戸時代の落首との共通項を論じていましたが、近代主義の産物であるキャラクターと前近代としてのキャラという思考実験はわかりやすいですが、今、現在言われている「萌え」としてのキャラはキャラクターに耐えれないキャラであって、東浩紀の「動物化」もそのシーンを肯定的に捉えようとしているのではないでしょうか、それでも「萌える」、例えそれが快楽原則によるものであろうとも、でも、僕は「キャラ」では世界につながらない気がします。萌えるけれど、全体性を獲得出来ない。「キャラ」と「依代」は一見似ているところがありますが、全く別の路線ですね。
何か、時間性を持たないところで…。時間性(歴史性)を持つキャラクターとスラシュしてもキャラと依代は違うなぁ…。でも、現象としてキャラは依代のようなところがありませんか?でも、違う。
何かまとまりのないことを書いてしまいました。いつか、整理してブログに書きます。失礼しました。★註:その後http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20051126/p1で書かれています。

# 夏目房之介さん
永井均の〈端的性〉は知らないのですが、じつのところ僕も『テヅカ イズ』を読んでいて、「キャラ」にも時間性があるという部分で「あれ?」と感じたんです。たとえばフィギュアやキティちゃんの「キャラ」性にも、伊藤さんは時間があるというわけです。もともとマンガの「別々のコマに描かれた厳密には違う図像を時間的に統一するもの」という規定の必要もあるので、そうならざるをえないんですが、どうもここのあたり「キャラ」概念にも揺れがある気はします。「萌え」に関していえば、やおい系の「位相萌え」(斉藤環)は時間的なものでしょうが、「データベースとしての要素萌え」(東浩紀)のうち、記号的な図像に関しては時間性をもたないとしたほうが腑に落ちやすい感じです。比ゆ的にいえば、一般名詞化した「萌え」対象(メガネとか)は時間をより排除し、動詞、形容詞的な「萌え」対象(受け/攻め、ツンデレなど)は時間を含むとかってグラデーションなのか。宮本さんによると「キャラの成立で重要なのは固有名による名指し」だそうなので、時間性の中で時間を固定化して止めるような作用があるのか・・・・。いずれにせよ近代リアリズム、近代的物語(体系として閉じる時間)に対抗的な概念として「キャラ」「萌え」を考えると、やはり時間性をもたない、といいたくなるのかもしれません。う〜ん、ちょっと時間概念のレベルが錯綜してますね。まぁ、言葉の遊びですけど(笑)。

#黒猫房主
もともと、永井均の<端的性>は永井<独在論>と<現在性>を説明するキーワードで「萌え」論に拡大するのは無理があるのですが……。(参照:永井均『私・今・そして神私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)講談社現代新書
中条省平さんの説明によると「キャラクターとは、絵の背後に人生や生活を想像させ、内面を感じさせる人物像である。ひと言でいえば、物語性を生きる存在だ。これに対して、キャラは、固有名をもち、人格的な存在感ももつが、人生や内面をもたない」とされています。
「固有名」とは指示性/記号性のみであって、「人生や内面をもたない」というのは指示対象のキャラが「意義/物語」をもたないというほどの意味でしょう。ところで、固有名が記号性をもつためには他のキャラとの関係においてその差異性が<輝く/萌え>となるのでしょうから、その固有名の記号性が反復される必要がありますね! 「キティ」が「キティ」として「萌え」の感情を誘発するためには、もろもろの「非−キティ」との対照が前提になるわけです。
ところが、永井均の<端的性>とはこのような他との比較(世界の中に比べうる同格の他者)を前提としないのが、特徴です。
ですから<端的性>はその都度の一回性として顕れ(記号として表象化されないので)反復されないものです(と、僕は理解しています)。その意味で「キャラ」を再度捉え返すと、それは「端的ではないが記号としての端的性」として<輝く/萌え>ということになるように思います。この意味での「指示性としての記号」だと時間性/反復性を含みますが、たぶん物語性(意味)に回収されないのでしょう。
やおい系の「位相萌え」(斉藤環)や「データベースとしての要素萌え」(東浩紀)というのは、すべてその差異性/反復性を前提としていると思いますので、「端的ではないが記号としての端的性」として総括できるように思いますが、如何でしょうか?
永井均の<端的性>は永井独自の遣い方なので、ふつうの遣い方としては「記号としての端的性」という言い方でも、意図するところは伝わるのかもしれませんね。
しかし、それは永井均を踏まえて言うと<頽落した端的性>ということになるでしょう。★上記の見解の部分、11/27加筆修正しましたが大意に変更はありません。

★参考として、黒猫房主が「カルチャー・レヴュー」に書いた「私的言語への感想」を下記に転載します。

★先月の「哲学的腹ぺこ塾」(http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html)では、永井均の最新作『私・今・そして神』講談社現代新書)の読解を中原紀生さんのレポートで行った。思い起こせば、この塾の第1回目は永井均<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス<子どもの>ための哲学』講談社現代新書)からスタートしたのだった。最近知ったのだが、「勝手に永井均評論ページ」では、中原さん(オリオン)の論考「「私」がいっぱい」と「哲学的腹ぺこ塾」の1回目と2回目がリンクされていた。この場を借りてお礼申し上げます。
★その中原さんの長大なレポートや本誌の論考(そのレポートからの抜粋)を読みながら、黒猫は小学校で初めて五線譜楽譜の記法を習い、教師が弾いた(指示した)ピアノの音階をその五線譜に記譜するというテストがあったことを想い出していた。黒猫は教師が弾いたその都度の音階をその都度正確に聞き分けることができたのだが、果たして黒猫のノートに記譜された採点はすべてバツとされた。なぜなのか?
★例えば、黒猫は「ド」の音を聞き分けその音の五線譜に記述すべき位置も識別できたのが、「記譜の仕方=順序」については「私的な規則」に従っていたのである。このことを世間では普通は「誤解」というわけだが、これはクリプキの指摘した「プラス」と「クワス」の事例に相同するだろう。
★このことを永井は、規則に「私的に」従うことと「私的な」規則に従うことの違いとして説明している。「規則への違う従い方は、提示されたとたんに、違う規則への従い方に変わる。そして違う規則は、われわれにとってどこまでも理解可能なのである」(ウィトゲンシュタイン入門ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)p180、ちくま新書)として、「私的規則」のその一例として私的言語はどこまでも可能であると書いている。そのことが『私・今・そして神』における「およそ言語というものが可能であるためには、端的でない私的言語や今的言語は可能でなければならない、とは考えられないだろうか?」(p161)に繋がっているだろう。
★ここでのポイントは、永井哲学/永井神学における「端的さ=概念によってはとらえられない現実存在=独在的」な在り方である。つまり、「私的に遣う言語=端的な私的言語」と「私的な遣い方の言語=端的でない私的言語」の違いである。この違いが、『私・今・そして神』の3章(私的言語の必然性と不可能性)のテーマであろう。そして「端的な私的言語」は同格の他者という対称性を超えている故に、(中原さんが書いているように)ある意味では「神への祈り」と言えるのであろうが、別の意味では私(たち)には概念化できない故に、どこまでも不可能(語り得ない)なのである。http://kujronekob.exblog.jp/95270/