第7回「哲学系読書会(仮)」

■第7回「哲学系読書会(仮)」
■日時:2020年07月16日(木)18時より21時半まで
■報告:山本
■会場:大阪市/北区民ホール・第1会議室(TEL.06-6315-1500) 
    ★今回は「第1会議室」です。
     地図:https://www.osakacommunity.jp/kita/access.html
    参加希望者は、事前にメールをください。
    e-mail:sougetssyobouアットマークmx5.canvas.ne.jp (窓月書房:山本まで)

■課題書:米盛裕二『パーズの記号学』(勁草書房
     本書は、『パース著作集』(勁草書房)の、1巻「現象学」、2巻「記号学」と3巻「形而上学」の主要な論点を解説しています。

■参考文献:伊藤邦武『プラグマティズム入門』(ちくま新書

             中原紀生「<哥とクオリア>第13章 ラカン三体とパース十体(序)」以下の         以下の章がパースの記号学現象学を援用した刺激的な論考です。 
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-13.html


閑話休題、以下を孫引きします。ソシュールデリダ言語学に欠けている論点を示唆しています。
加藤典洋『定本 言語にとって美とはなにかⅠ』の文庫版解説「言葉について」
《たしかに吉本は、言語をコト(表現)という様相で見ようとしたため、言語の モノ(構造)としての問題領域を不問にふした。そのため、たとえばソシュール言語学の達成が従来の「言語名称目録説」(事物の秩序が言語の秩序とは独立に、それに先行して存在し、言葉はその名称にすぎないという言語観)を打破したところにあることに、十分に立ち止まらなかった。その結果、世界の言語学的関心と彼の言語学的達成との関係づけという仕事は放置された。たぶん、ソシュ
ールの言語学を出発地とするデリダの言語観からは、吉本の表出論は、表出作用の中にある主体と言語の切断の契機を等閑にふした音声中心主義的な言語観として、一刀両断のもとに切り捨てられるに違いない。しかし、ソシュール言語学では逆に、言語のコトとしての方面を不問に付しているため、なぜ共時的な言語の構造(ラング)が時代をふるにつれて人々の言語活動を通じて変化していくかという問いが、解かれない謎として残る。デリダの言語観でも、言語の「意味」は、それがどういう構造をもち、様相を呈しているかは言いえても(たとえばそれはシステムの差異の戯れとして存在する)、それがどこから来るか、それが何なのかは、言い当てられないまま、残るのである。》
★山本の補足:いちおうソシュールは『一般言語学講義』において、言語の変化は「あらゆる意図とは無縁のところで生じる偶然的個別的出来事」との解を用意 しています。この出来事性に無意識の<欲動>をみる見解もあり。