「キャラ」と「萌え」の考察③

「キャラ」と「萌え」の考察②への応答が続いていますので、引き続き3回目として再録と僕の感想をあらたに書きました。

#葉っぱ64さんhttp://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/
鈴木さん、この実話を興味深く拝見しました。→http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20051127

>男女の物語〔ヘテロセクシュアリティ〕に回収されないZ君として突如立ちあらわれて「輝く」

固有の歴史はジェンダー的には男の時間性(文脈)にからめとられているから、その男性は怒ったのでしょうね。僕もこのようなシーンでは鈴木さんと似た反応をしたと思いますが、僕と同世代は勿論、うんと、若い同性でもその男性と同じような反応を多分するでしょう。だから、僕は例外中の例外なんだと思うが、フェミニストたちもどうもジェンダーとしての男女の物語にとらわれていると思う。♂♀のシーン(まあ、これを時間性のないと概念規定してみます)で、「キャラ」を考察したら、生々しさが前景化する気がしますが、それを「萌え」と言っていいのかと今、考えているところです。
ただ、鈴木さんの事例はジェンダーの文脈の中で別の変換装置が働いて「キャラ萌え」したのであってジェンダーの文脈を出て♂♀の「モエ!」でないみたいですね。(2005/11/28 18:18)

#鈴木薫さんhttp://kaorusz.exblog.jp/
葉っぱさん、コメントありがとうございます。ここで話題になっていることと私の関心事がどのくらい交差しうるものか測りきれないまま、とりあえず既出のタームを入れて記述してみましたが、さほど見当はずれでなかったのでしたら、よかった……。
さて、「実話」を詳述するのはいろいろさ差しさわりもあり、今度はフィクションを一つ――松浦理英子親指Pの修業時代〈下〉 (河出文庫)『親指Pの修行時代』の最初の方に、ヒロインの一実が恋人の正夫から「ホモごっこをしよう」と言われるくだりがあります。つまり、彼女が年下の少年で自分が念友だと思って抱き合おうという(というか、すでに抱き合っている)のですが、ふだん規範的なジェンダーセクシュアリティを少しも疑わない「正しい夫」のこのささやかな逸脱に一実は「萌え」ます(そういう言葉は使っていませんが)。

この場合、背後に、「男どうし」という関係性の神話の厚みがあってこそ成立する萌えなので、やっぱり「物語」はあるんですよね。ただ、それは、内面化されているのではなく、「ホモごっこ」という言葉で取り出せるほどに出来合いのガジェットになっているわけです。ジェンダーで遊べるかどうかが分かれ道かもしれません。(いうまでもなく、「正しい夫」がこんなことを口走るのは一瞬だけのことです。)

葉っぱさんのお書きになっている「ジェンダーの文脈を出て」の男女の「モエ!」とは、具体的にどのようなものを想定していらっしゃるのでしょうか。

フェミニストにもいろいろいますが、確かに、ポルノと聞くだけで反対しないではいられないほど、既製の「男女の物語」以外のものを想像できない人もいますね。

Yさんの話を聞いて怒ったという男性ですが、ホモフォビアのほかに、自分の男(夫)のことをそんなふうに他人に向かって話題にする「妻」としてのYさんに、不謹慎さというか、「はしたなさ」を感じて気に障ったということもあるのではないかと思います。ジェンダーを逆にしてみれば、自分の妻や恋人がポルノに出演させられたのを見て「もえ〜」と言っているようなものとも言えますから。(ただ、それ以上に、女が男についてそうやって話題にすること自体が彼にとってはありえない(あってはならない)ことなので、それをやってしまうYさんに対して怒ったのでは――まあ、実際にどういう人か知らないので、あくまでも可能性としてですが。)

そうそう、今朝もTVに「レーザーラモンHG」の「フォー」の声が響いていましたが……あれは「キャラ」と考えていいんでしょうか。以前、TVに増殖する「おかまキャラ」がオネエばかりなのはなぜか、という話を友人たちとしていて、結局あれは「女」なんだというところに回収されるため見ている人(男)を脅やかさないのだろうという結論になりました。「おねえキャラ」が本質主義的な「女」(女らしい内面を持つ)に還元される一方、「HG」の場合、彼が本当にゲイだとは誰も考えず(考えられないほどホモフォビックだから?)、完全に「構成」された(金と笑いを取るために)ものと見なされているんでしょうかね。(2005/11/29 13:41)

#葉っぱ64さん
松浦理英子の『親指トム〜』は確か「ブルーインク?」でしたか、雑誌連載当時から愛読していました。その最初のシーンは覚えていないので、確認出来ませんが(ブックオフでよく見つけますよね、それでよく百円で購入して再三誰かにプレゼントして今は手元にありません)、でも、あえてする「〜ごっこ」は最初の一回目は「萌え!」ってことになりうるが、通常はそれで終わり。吉行淳之介でしたが、二回目、三回目とハイレベルを維持するならば、真性の変態さんかもしれないが、幸か不幸か大概は持続しない(笑い)
出来合いのガジェットで遊べるかは“コスプレイ”にしろ“決まり文句”にしろ、ある物語に耐えうる強度が要求されるでしょうね。僕にはそんな持続性と強度はないですね。一回目はやってみようかな、っていう誘惑にかられることはありましたが、それっきり、これっきりでした。

>「ジェンダーの文脈を出て」の男女の「モエ!」

これですか、男女でなく♂♀です。男女そのものはジェンダーの文脈に内蔵されている。その文脈を出た裸のセックスとしての♂♀であって、生理的反応としての「モエ!」を強調してみたのです。でも、実際そのような「モエ!」は概念措定出来るけど、実際のシーンではありえないと思います。セックスと物語は不即不離だなぁ、やっぱり。(2005/11/29 18:45)

鈴木薫さん
テヅカ・イズ・デッド』ざっと読みました。《おそらく本書の最大の魅力は、中条に「この鮮烈でシャープな読解の力業に、私の背筋に戦慄が走った」と言わせた「手塚治虫の『地底国の怪人』においてキャラの力が抑圧・隠蔽され、代わって近代的人間の物語が戦後マンガの導きの糸となったことを解き明かす二十数ページに結晶している」という箇所にあるのだろう》と黒猫さんは書いていますが、そこから130ページあとで、手塚の『地底国の怪人』に登場するウサギ人間「耳男」の死に際の言葉が、53年を隔てて描かれた会田裕『GUNSLINGER GIRLGUNSLINGER GIRL 1 (電撃コミックス)』に出てくる「亜人間」の美少女戦士の台詞と対比された箇所を読むとき、私はゾクゾクしました。
「ジョン ぼく 人間だねぇ」
と耳男は言い、
「私は 何から何まで 偽物ですね」
と少女は言うのです。

これでわかるように、『テヅカ・イズ・デッド』の著者は、キャラには内面がないと言っているのではないのですね。《偽物でありながら、それでもなお存在する内面》がここでは提示されているのですから。
松浦理英子つながりでの連想ですが、評論の著作もある年配の女詩人が、「『ナチュラル・ウーマン』をマンガにしたものを読んだけれど、やっぱりマンガでは小説のように細かい心理を描けないわねえ」と、そのマンガのできはともかく(読んでいないのでそれは何とも言えませんでした)、完全に一般化して言うのを聞いたことがあります。同席していた人たちは皆あきれて顔を見合わせ、しかたがないので私が、「言葉であらわしたものをマンガでそのまま表現する必要はないし、できない。その代り、小説では表現できないことがマンガではできる。映画化の場合も同じだけれどメディアにふさわしい表現のしかたがあるはず」というような(実にあたりまえで馬鹿馬鹿しくなるような)ことを説明したんですが。「近代的人間の物語」しか理解できない人って、確かにいるんですね。(2005/11/30 00:15)
おっと、マンガ家の名前、字を間違えてしまいました。
正しくは相田裕です。(2005/11/30 04:22)

黒猫房主

>男女でなく♂♀です。男女そのものはジェンダーの文脈に内蔵されている。その文脈を出た裸のセックスとしての♂♀であって、生理的反応としての「モエ!」を強調してみたのです。でも、実際そのような「モエ!」は概念措定出来るけど、実際のシーンではありえないと思います。セックスと物語は不即不離だなぁ、やっぱり(葉っぱ64さの発言引用)

葉っぱ64さんの<生理的反応としての「モエ!」>という観点だと、♂♀という生物学的性差と性的志向性的指向が一致するという話になってしまいますが、この間のクイア学はその辺を解体させたと思います。同性愛は異常でも変態でもない。と言っても、最近は保守化の反動とともに、既成のジェンダー観がむしろ強化されようとしているのが問題ですが。またそのこと(既成のジェンダー観)に囲繞されることから生じる犯罪も起きているように思います。
それで鈴木さんにお尋ねしたいのですが、「セックス=生物学的性差」もジェンダーに基づくものだというバトラージェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱の批判(『ジェンダー・トラブル』)がありますね? この考えを徹底化すれば、同性愛者から性的同一障碍者インターセックスの人たちまでを含む多様な性の在り方を肯定しうる、<n個の性>になるのではないでしょうか?

それとは別に、僕は<文化としての変態さん>を措定できると思います。
変態さんとしての快楽(有意味化)を得るためには逆説的に厳しい規範が要請されてしまう。だからこの世界では作法というか、差異化/形而上化が厳しいと思われます。今日のような「風俗業界」の瀰漫的な変態遊び(ソフトSMとか)に対抗しうるためには、変態さんであることにおいては強度の意志が必要となり、<観念的「モエ!」>が<生理的「モエ!」>をはるかに凌駕しているはずですね。

>これでわかるように、『テヅカ・イズ・デッド』の著者は、キャラには内面がないと言っているのではないのですね。《偽物でありながら、それでもなお存在する内面》がここでは提示されているのですから。(鈴木薫さんの発言引用)

先にも夏目さんとの応答で書いたように、僕は原書との照応関係において書評子・中条氏への感想を書いているのではなく、あくまで中条氏の書評テクストそれ自体への感想なのです。
それで鈴木さんのご指摘の、中条氏がどのように原書を読まなかったかという観点は面白いと思いました。
僕は『GUNSLINGER GIRL』に出てくる「亜人間」を読んでいないので想像で書きますが、「人間の遺伝子」をコピーした「クローン人間」はもともと「偽物」でも「亜人間」でもないので、当然ながら「内面性をもつ」独特な存在なのです(この辺ことは、いぜん「カルチャー・レヴュー」の臓器移植特集号でも触れましたhttp://homepage3.nifty.com/luna-sy/reb02.html#02-5)。
亜人間」と言わせているものは「人間的自然」という物語性を前提にするから生じるのですが、永井均の思考実験にあるように、仮に「私」が「私A」と「私B」に分離した場合に、「私A」が死んでも「私B」が生き残るからと言って「私A」は哀しまないですむでしょうか?

その後の応答を再録して、コメント欄は重複のため削除しました。

#鈴木薫さん
『黒猫さん、交通整理ありがとう。「亜人間」の話からしましょうか。今そっちの方が興味あるから。葉っぱ64さん、アレはトムじゃなく、雑誌は「文藝」ですよう(短期集中連載とあるのを見て四回くらいで終るかと思って買っていたら続く、続く)。今でも持っていますが、結局単行本は入手しなかったような気が。いまどきは百円で出回っているのですか。あいにくブックオフというところ一度も行ったことがありません)、まあそんなことはどうでもいいのですが、二度目の書き込みで葉っぱさんが「裸のセックス」に至るために脱ぎ捨てるべきものがジェンダーだと思っているとわかったときには、頭を抱えました。「フェミニストたちもどうもジェンダーとしての男女の物語にとらわれていると思う」という最初の書き込みの「ジェンダー」が、生物学的セックスにつけ加えられたものといった意味で使われていたとも知らずに、「フェミニストにもいろいろいますが、確かに、ポルノと聞くだけで反対しないではいられないほど、既製の「男女の物語」以外のものを想像できない人もいますね」と書いた私のマヌケな応答は取り消します。そして断然フェミニストの側に立ちます。ポルノフォビックなフェミニストについての上の言及は内容的には正しいと思いますが、フェミニストが<そういう意味での>ジェンダーにとらわれていると葉っぱさんが主張されていたのなら、これは完全に誤解に基づくやりとりだったわけですから。

で、一度目の書き込みを読んでレスをつけてから、戻って二度目の書き込みを見るまでに、私は本屋へ行って『テヅカ・イズ・デッド』を買い、読みました。戻ってきてがっくりしたわけですが、啓蒙という行為が何より嫌いなので、葉っぱさんに批判めいたことを書く気がしなくて。(だから、葉っぱさんが言っているのはすでに解体されている「生物学的性差と性的志向が一致するという話」であると黒猫さんに書いてもらえてありがたい。もっとも、これ、表現に問題があると思いますが――要するに、男の身体を持っていれば必ず女を欲望し、女の身体を持っていればもれなく男を欲望する、という話ですよね。(*)。

*sexual orientationの定訳は、一応、性的指向となっています。また、「性別」と「性差」は同じではなく(セックスとはたんに二分法ですし)、フェミニストは性差をなくそうとしていると反動勢力が最近かまびすしいことを別にしても、「ジェンダー」を「性差」と見なすのは間違いのもと(というか、端的に間違い)。そのあたり注意すべきでしょう。

葉っぱさん言うところの「裸のセックス」なるものは、だからたんなるヘテロセクシュアリティであり、そこから逃れてきたはずの「男女」の「文脈」なしには実は成り立たないものです。「ジェンダーの文脈を出た裸のセックス」に萌えを見出すのはもちろん自由ですが、実はそこでこそジェンダーは最大に機能していると言えます。

それだけ言っておいて、亜人間の話です。実は私もこのマンガ家の名さえはじめて見るもので、もちろん当の作品を読んではいませんが、作中では少女たちは「義体」と呼ばれており、「亜人間」とは『テヅカ・イズ・・・』の著者・伊藤剛が名づけているのだと思われます。『地底人帝国』のウサギ人間・耳男[ミミオ]もそう呼ばれており、そしてこれはもともとは四方田犬彦命名なのではないかしら――というのは、四方田こそ、その昔、耳男の耳に注目し、W3のボッコはもちろん、アトムの頭の二つのツノもまた同類だとして(他にもいたはず)、人間に似て人間ならざる者のしるしだと見抜いた人だからです。(ちなみに伊藤は、四方田の論考から別の部分を引用していますが、耳のことには触れていないようです。)
さらに、「義体」たちは(黒猫さんの考えたような)クローン人間でないばかりか、障害があったり虐待を受けたりした少女であり、それを本人の意思によらずに身体改造し、薬物で洗脳してテロリストと戦わせるという……およそ、善良な黒猫さんの想像を超える設定なんですよ。男性の担当官と組んで行動するのだけれど、「担当官に対して「強い感情」を持つように薬物を用いて操作されている」。その結果、担当官が危ないときには条件反射的に彼を守る……。クローンだから内面があって当然とかいう話とはまったく違うものなのです。しかも、この作品が特異なのは、「それが悪趣味な、倫理的に問題のあるとされるものだと作中で言及」し、「読者に対して「おまえらは、こんな酷いものに萌えるのか」といいたげな身振りに満ちている」ことだそうで、それを「ジャンルへの強い批評性」と著者は呼んでいます。

自分の感情が操作されたものであることを知り抜いて、それでもなお存在する内面を持つ少女。それだけの前提あってのことと知れば、「私は 何から何まで 偽物ですね」と呟くシーンも、またちがって見えてくるでしょう?

伊藤は、この「私は 何から何まで 偽物ですね」を、「私はキャラですね」と読みかえています。それに対して、改造されたウサギであった耳男は、本来キャラなのにキャラクターとして死に、その結果、キャラであったことは隠蔽され、「事後的」に内面が生まれ、最初からキャラクターであったと錯覚されると述べています。
この構図、どこかで見たことあると思いません? Effectに過ぎないジェンダーが、セックスという実体から発しているかのように錯覚される。あれと同じです。デリダとも同じです。もちろんよって来たるところが同じだからです。だいたい「事後性」ってフロイトの用語ですし。

こうして見出された内面って、「何から何まで偽物」の私たちのセクシュアリティのようではありませんか。

これが、私が書評から遡って原典にあたった結果の発見です。
というところでセクシュアリティに話を戻してもいいのですが、
もう今夜は体力がないので改めます。

黒猫さんに一つ質問。n個の性の「性」って原語では何なの?(2005/11/30 21:49)

葉っぱ64さん
>鈴木さん
長文のレスをありがとう、
そうですね「親指P〜」です。書き間違いました。ゴメン!
「文藝」にはまちがいないと思いますが、初稿が掲載されたのが、処分しているので確認出来ませんが「ブルーインク?」(題名もはっきりしませんが、リブロ池袋で購入した記憶があります)ではないかと思ったのです。まあ、本論とあまり関係ない話題なので、後にも先にも「文藝」でしか連載されていなかったとしておきます。
僕は今でも昔でも男根中心主義でない性物語に共振するタチなので、その文脈でしか発想出来ないのです。
もう一度強調しておきますが、
>その文脈を出た裸のセックスとしての♂♀であって、
これで僕が言いたかったのは概念として「裸のセックス」は想定出来るけれど、実際にはありえないと言いたかったのです。
セックスは文脈に依存する。そのことが今僕には納得出来ると言うことです。
そのことに関する学問的解釈、交通整理は黒猫房主さんに任せますが、ただ、僕が性のことを語るとどうも誤解されやすいので、念のため、付記しました。(2005/11/30 22:57)