小野十三郎賞贈呈式の金時鐘さんの講演から

詩は現実認識における革命


 歴史の曲がり角、とはまま慣用語まがいに聞く時代変動の喩えではありますが、現今の日本は大きくカーブを切るどころか、まったくもって直角に折れ曲がっていっている観を呈しています。早くから憲法改定を公言してはばからなかった安倍晋三氏が、教育基本法の改定を政権与党のみで押し切ってまで学校で「愛国心」を教えていくと言い、「美しい日本」という情緒的な心情を政治目標に掲げていま新首相になっているのですから、なおのことそう感じてならないのです。
 私が多感な少年だったころ、日本は神州日本、神の国の日本と謳われて、この上ないぼどの美しい国であると習わされていました。日本国民としてはシコノミタテ(醜の御楯)として天皇陛下に命を捧げることが、最たる美徳でもありました。戦争を経てきた日本が、国家主義的色合いの濃い安倍新首相から事立てて美しい国、稟とした国、を押し出してこられると、その美しいという国の概念がなんとも不気味でなりません。美しくないと思われていることの払拭に力がかかりそうで、暗い歴歴史の申し子の朝鮮人の私は言い知れぬ不安に駆られてならないのです。
 小野十三郎先生の『詩論』に詩的行為、詩に注力する意志的な行為、と受けとめてもいいのですけど、その詩をする行為というのは「間のびした退屈な時間でしかたいような、日常生活の底に見られる恒常的な抵抗の構え」だと言っているくだりがあります。馴れ合っている日常からの離脱と、そのような馴れ合っている日常に向き合うことが、詩を生ましめる原動力だといっているわけです。詩をどのように考えるにせよ、私たちはもっと身の回りのもの、ひいては変動する時代という対象に対して関心をつのらすべきです。経済大国だから私たちは恵まれているのではなくて、溢れるばかり潤沢さによってむしろ疲弊し、荒んでいる人たちもいっばいいるのですから。
 光に映えるところほど、裏の暗がりは深いのです。だから詩は、誠実に素朴に生きている側にあるべきものなのです。それを疎外する一切のものとは当然向き合わざるを得なくなります。ですので詩というのはけだし、言葉だけの創作に限りはしません。そのように生きようとする意志力のなかにこそ、そうであってはならないことへの批評が息づいています。そのこと自体がもはや詩といっていいものですが、その批評を言葉に発露できる人が詩人ですので、詩は好もうと好むまいと、現実認識における革命なのです。
 現代詩は思いを感じさせるより、見える物として描こうと努めるものですので、情感をそそるようなことは極力避けるようになります。それでも一定のリズムが作品を貫いているとすれば、それがその詩人の独白の抒情です。つまり主情的な情感から切れてなお流露している律動こそが、見い出さねばならない現代詩人の抒情なのです。短歌や俳句もこの抒情の面から見ていけば、詩であることとの違いがはっきりするでしょう。
 抒情とか情感というものは、それ自体は個々人の体感的リズムであり、感情のうごめきですので他人のあずかり知らぬことではありますが、にもかかわらずそれが予定調和の総和のように個々人の心的秩序ともなって染みついている、美意識のリズムであるとしたら、それはもう一大思想と呼ばねばならないほどのものです。『詩論』では「民衆の言葉の中に絶えず宿っている短歌的リリシズムへの郷愁を、詩人は断ち切らねばならない」とまで、小野先生は言い切っています。
 自分の詩のために本当に日常からの離脱を図りたいのなら、何十年となくお上の正義を平俗に説き続けてきている人気番組「水戸黄門」ぐらいからはまずもって離れねばなりません。見過ごされ、打ち過ごされていることに目がいき、馴れ合っていることが気になってならない人。私にはそのような人が詩人なのですが、その詩人が満遍なく点在している国、路地の長屋や、村里や、学校や職場に、それとなく点在している国こそ、私には一番美しい国です。

 キム・シジョン 1929年、朝鮮・元山市生まれ。済州島四・三事件を経て49年に来日。詩人。主著に『新潟』『金時鐘詩集選 境界の詩』『原野の詩』(小熊秀雄賞特別賞)『「在日」のはぎまで』(毎日出版文化賞)『わが生と詩』など。

朝日新聞」夕刊より(2006.12.02)

抜粋にしようかとも考えたが、あえて全文を転載します。


<何十年となくお上の正義を平俗に説き続けてきている人気番組「水戸黄門」>に馴れ合って、「恩寵的人権(自由)」にひれ伏していてはなるまいよ〜各々の方。
街頭へ出よう! 「12.4 神戸公聴会への抗議行動」に参加されんことを!