小田はわれわれとともに其処にいつづける。それが死者との共闘であり、ほんとうの弔い合戦なのだ。


僕は小田実を集会で二三度しかリアルでは見ていないのですが、精力的である意味で傲岸な人だという印象を持っていましたが、昨晩のNHKBSの「小田実 遺す言葉」を観て、その印象が変わりました。

小田実はシャイなのだなあ。そして無類の猫好きだったことを再発見した。
そのTVで印象に残っている幾つかの言葉。

60年安保の最中にいて、自分は違和感を感じていた。
日本だけのことを考えていいのか?

日本はダメだという若い人が多いが、この国は捨てたもんじゃない。
そんなに簡単に諦めちゃだめだ。

★以上は精確な再現ではないので、大意として受け取ってください。

小田実の原体験は、大阪空襲の地獄絵にある。そのただ中に少年・小田実がいた。
小田はそのTVの中で、当時の大阪大空襲を米軍が上空から撮影した「ニューヨーク・タイムズ」掲載の写真を示して、上空から見る世界とその地上世界の違いをたんたんと大阪大空襲のそのただ中にいた自分の位置から語った。

そしてガン末期の病床で小田は、日本が「小国主義」の道を歩まないで「富国強兵」の道に進んだ近現代史を回顧しながら、その日本の過ちを胸を詰まらせながら言葉を吐き出す。ほとんど慟哭にちかい印象を受けて僕も涙した(いまも書きながら憶いだして涙してしまった)が、小田はある意味で最良のナショナリスト/インターナショナリストの境地を生きた人ではなかったのか?

盟友かもしれない、子安宣邦氏の追悼を下記に引用します。

小田実のために


小田はいつでも其処にいた。小田とはいつでも其処にいる人であった。其処とは何処か。其処とは何処でもない此処である。此処とはわれわれの住んでいる此処、われわれの間、小田がただの人という市民の生活する場である。

 少年の日の小田にとって此処は、空爆というただの市民への無意味な死の強制から逃げまどった廃墟の大阪であった。戦争とはただの人びと、子供たちにとって無意味な、強いられた死、すなわち難死の体験としてあった。それが二〇世紀の総力戦といわれる戦争であった。少年小田は廃墟の大阪の其処にいた。彼は大阪の其処をずうっと心のうちに持ち続けた。彼は其処の記憶を失うまいとし、其処から決して逃げ去ることはしなかった。あるいは逃げようにも逃げられなかった。彼をわずかな証人とも頼む死者たちがいたのだし、彼を生き残らせたわずかな偶然は、生き残らなかったものの忘却を許さなかったからである。彼が心に持ち続けた其処は、歴史の現場となった。大阪の其処は、此処として、小田が立つ現場としてよみがえった。

 現場とは、人が見て見ぬふりをすることのできない、立ち去ることを許さないような其処である。其処が事件の現場となることによって、立ち続けねばならない此処となる。事件記者たちにとって現場とは、飛んでいって取材すべき事件の発生現場であって、決して彼が日常に住む其処ではない。だが小田は日常に人びとが住み、歩く其処に事件の現場を見た。其処が見て見ぬふりをすることのできない現場であることを言い続けた。ベトナム戦争はたしかに見て見ぬふりをすることのできない世界の現場であった。だが一九六五年に「アメリカはベトナムから手を引け」というスローガンを、ただ一九五五年のたとえば砂川の「ゴー・ホーム・ヤンキー」というスローガンの延長として書き、叫んだ人たちにとって現場とはあくまでベトナムの樹林にあって、私たちの住んでいる日本にあったのではなかった。私にとってもそうであった。だから小田は私にとって再発見されねばならなかったのである。

(……)

べ平連の運動はひとりひとりの行動であった。ひとりひとりが立ちあがることで、その生活の場を現場にしていった。小田は書いている。「自分で行為に乗り出して行ったからと言って、彼はそこでふだんのくらしの「場」の外に飛び出て反戦平和の活動家に、まして日本の大変革を夢みる革命家になつたのではなかつた。小田は市民を、「ただの人」といい、「生きつづけるもの」ともいう。「生きつづけるもの」とは、ウンザリするような日常の生を、しかしなおそれを自分の生として生きていこうとするもののことである。小田はこの「生きつづけるもの」の同調者として、あるいはその一人として生きようとした。生きようとするそのことが、その生の場をたえず逃げることの許されない現場にしていったのである。市民運動とは、ただの市民が「そのありようの居ぬきのままで」立ち上がることである。そのことで自分のいるこの場を、逃げようのない現場にしていくのである。小田のべ平連の運動は、ただの人びとによってこの世を変えることの可能性を教えたのである。

(……)

小田は其処にいつづけた。「ヒドイね」とうめくようにいいながら、ひどい国の、ひどい政治の日本の其処に、自分たち市民が生き、学ぶことのできる基本法を共同して作りながら小田は其処にいつづけた。小田は其処を現場にしていつづけた。なぜならよりよい明日は、其処からしかこないからである。小田はいっている。「よりよい「明日」は「今日」の現実と無関係に存在しているものではない」と。

(……)

 小田は死んだ。人びとは大急ぎで追悼した。この追悼の立派な言葉とともに小田は死者となった。もう其処にいない死者となった。死者とは人びとが作り出していくのである。死んだものが直ちにあの世の死者になるわけではない。思いを残した死者の魂はいつまでもこの世にいるのである。生きる小田は其処にいつづけたのである。死んでもなお小田が其処にいつづけたとしたら、ひどい国のひどい政治家どもはきっと震えあがるだろう。小田はきっと其処にいつづける。 われわれが其処を立ち去ることのできない現場とするかぎり、小田はわれわれとともに其処にいつづける。それが死者との共闘であり、ほんとうの弔い合戦なのだ。

★太字は引用者によるもです。
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