上野博正さんの想い出

いぜんに書いたことのある、故上野博正さんの想い出を一昨日(11/22)のエントリーに引き続いて、加筆修正のうえ転載します。この想い出を書く契機を与えてくれたのはTさんとの掲示板での論争だった。そのTさんの筋違いからの上野さんへの人格攻撃があったので、それに対する黒猫房主の反論として書かれたものです。

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僕が知っている範囲での上野さんの人となりを書きます。

東京下町は判子職人の長男として生まれ、早くに母を亡くし四畳半に家族4人が暮らす絵に描いたような困窮の環境から、苦学して東京教育大学(歴史)と東京医科歯科大学を経て医師(産婦人科・精神科)になった。
教育大学生のころに(?)鶴見俊輔さんの本に感動して夜行列車で京都の鶴見さんに会い行き、それ以来の鶴見さんの弟子(おそらく鶴見さんにとっては、やんちゃな愛弟子であったろうと思う)となる。子供のいなかった鶴見良行さんには弟のようにかわいがられたそうである。医科歯科大学のインターンか助手のころに大学紛争があって、彼は学生側を支持して大学を辞めている。
以来、反骨の人として離島の医師をスタートに医師会には所属せず、人情家にして奇人・変人、あるとき新内の名取としてほとんど無名の思想家だったが多くの支持者がいた。

庶民の生活感覚に基軸を置いて、生半可なインテリを罵倒する直情型の奇人・変人であったため、インテリ風を吹かすタイプや僕などにも手厳しかった。そのため「誤解」した人も多かっただろう。僕も突然怒鳴られ理不尽に思ったことも数度あり、事実あることを契機に上野さんの元を去って別グループの読書会(サンチョ・パンサの会)を形成して反旗を翻したこともあったのだが、当時上野さんがオーナーだった「傍居」という呑み屋にゆくと、怒りもしないで迎い入れてくれる包容力のある人だった。
僕は上野さんの繊細な人柄と反骨精神、そしてその文学性を文句なく慕っていたが、残念ながら弟子としては最期まで認めてもらえなっかたように思う。
その上野さんからは、柳田国男の『山の人生』を講読してもらったことをよく覚えている。上野さんじじん漂白者に憧れていて、それもあってか新内の名取にもなった。それから大の女好きで、よくモテていたらしい(笑)。
思想的には虚無思想だったと思うが、その辺は鶴見さんに相通じるものがあるのではないか。そして鶴見俊輔さんに請われて、後年、斜陽の「思想の科学社」の社長を引き継いだ。また友人の連帯保証人になってその莫大な債務を返済もしていたが、それを恨むこともなく「浮き世の義理」として淡々としていた(上野さんは単なる診療所の町医者だった)。

その上野さんは、生前1冊の本『新宿にせ医者繁盛記』(1986年、思想の科学社)を遺したのみである。その出版パーティーでは鶴見和子さんが見事な日舞を披露した。先年亡くなられた同志(?)の京都の北沢恒彦さんが「ヘイジュード」を浪々と唱ったことも、昨日のことのように覚えている。
なんか、シミジミとしてきたな。
上野さんは2002年元旦に膵臓癌で亡くなった。享年67歳。
「正月の戸に注連飾り、外で会おう会おう門で松」とは上野さんに教えて貰った都々逸だが、もはや外で会うこともかなわない。
2002年3月9日の「上野博正さんを偲ぶ会」では、鶴見俊輔さんらが上野さんの「人と思想」を講演した。http://www.jca.apc.org/beheiren/190UenoHiromasawoShinobukai.htm

★後藤 嘉宏さんの追悼文http://www.slis.tsukuba.ac.jp/~ygoto/essays-uenosan.htm