「朝日新聞」の書評への恣意的感想

●『テヅカ・イズ・デッドテヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ―ひらかれたマンガ表現論へ』伊藤剛、NTT出版)[掲載]2005年11月13日[評者]中条省平http://book.asahi.com/review/TKY200511150265.html

1953年生まれの僕らは(『ぼくら』という月刊漫画誌もあったよね)、TVの誕生とともに漫画〜アニメをサブカルチャーメインカルチャーの「環境」として育ってきた世代である。そして間違いなく「ららら科学の子」であり鉄腕アトムの初代歌(「ららら〜」ではなく「ぼーくは無敵だ鉄腕アトム」)を唄える世代でもある。だから美術評論から出た石子順造(「漫画主義」)のコマ割りや吹き出しの構造を分析した漫画論にも、素人ながら関心をもったりもした。(以下の太字部分は、すべて書評文の引用です。)
そんな旧世代から「マンガがつまらなくなったという声をよく聞く」としたら、「だがそれは違うと本書の著者はいう。手塚治虫の作品を規範として育ち、戦後マンガの奇跡的な成長を支えた読者や評論家に、今のマンガの魅力が分からなくなったのである。テヅカ イズ デッドと宣告される理由だ」と。
その理由とは1980年代後半ころにあったと著者は分析する。「キャラクターからキャラへの移行」が起こり、「キャラクターとは、絵の背後に人生や生活を想像させ、内面を感じさせる人物像である。ひと言でいえば、物語性を生きる存在だ。これに対して、キャラは、固有名をもち、人格的な存在感ももつが、人生や内面をもたない。だから、これまでのマンガの読者はキャラに同一化することができない。にもかかわらず、現在のマンガを支える読者は、現実的な身体性を欠いたキャラに強く感情的に反応する。読者のかなり一方的なこの感情的反応が、「萌え」と呼ばれる」
なるほど「萌え」の本質とは、そういうことだったのかと合点がいった。この「内面性/物語性」がないがゆえに、「萌え」読者はそれぞれの妄想を補完することの自由さがいい(萌え)のかもしれない。★
しかし「近代的な自己表現としての物語の終わり。すなわち、ポストモダンへの突入である」と思うのは即断であって、「キャラの魅力は、「手塚治虫=マンガの近代」の前から存在していた。従って、マンガのポストモダンとは、マンガ固有の本質への回帰だとも見なせる。だが、とここでマンガ旧世代に属する私(=中条)は悲しく思うのである。萌えを誘発するキャラがマンガ固有の魅力だとするならば、私はこの魅力とともにマンガの未来に行くことはできないな」中条省平は嘆息する。
この意見にほぼ同意する僕などは本書を読む気力に欠けるように思えるが、おそらく本書の最大の魅力は、中条に「この鮮烈でシャープな読解の力業に、私の背筋に戦慄が走った」と言わせた手塚治虫の『地底国の怪人』においてキャラの力が抑圧・隠蔽され、代わって近代的人間の物語が戦後マンガの導きの糸となったことを解き明かす二十数ページに結晶している」という箇所にあるのだろう。
夏目房之介さんのブログで「萌え」に関するレジュメ(「萌え」についての断章 補足・表現要素)がアップされている。http://www.ringolab.com/note/natsume2/archives/004000.html http://www.ringolab.com/note/natsume2/archives/004001.html#more
★その後、夏目房之介さんがコメント欄にカキコしていただいた。それで思い直したのが、「キャラ」とは永井均ふうに言えば<端的性>ではないのか? つまり「キャラクター」のような時間性をもたない<いま、ここ>の輝きが「萌え」なのではないのか? 思いつきの域を出ないのではあるが……。(11/25追加記述)


●『生きる意味―「システム」「責任」「生命」への批判生きる意味「システム」「責任」「生命」への批判』(イバン・イリイチ藤原書店 [掲載]2005年11月20日[評者]柄谷行人
http://book.asahi.com/review/TKY200511220387.html

柄谷行人の書く文章は、いつも鮮明で無駄がないように思う。これは曖昧さを嫌うという点においては、人間関係/運動家としては欠点で裏腹でもあるかもしれない。「NAM崩壊」騒動での柄谷の振るまいを見知っているものには、理論家と運動家の背理を柄谷には感じてしまうだろう。
その柄谷にとって、イバン・イリイチの希望/絶望は切実な反面教師かもしれないとも思える。(以下の太字部分は、すべて書評文の引用です。)
イリイチは経済学者カール・ポランニーに共感し、その関係で、『エコノミーとエコロジー』を書いた玉野井芳郎とも親しかったという。そのことがわかると、イリイチの立場はかなり明瞭になる。ポランニーも玉野井も、互酬制的な経済を未来に実現することを目指すタイプの社会主義者であった。つまり、イリイチもたんに過去の共同体を称賛したり、そこに回帰することを説いたりしていたのではない。資本主義市場経済の深化によって何がうしなわれたのかを強調したのは、それがわかっていないかぎり、未来がありえないからである。/たとえば、女性がこれまで男性が独占していた仕事の領域に進出したことは、進歩であるようにみえる。しかし、それがある程度実現されてみると、明らかになるのは、こうした変化が、資本主義経済がいっそう深く浸透する過程にほかならなかったということである。では、この資本主義経済に対して、どう対抗するのか。イリイチを非難した社会主義者は、実際のところ、資本主義経済と共通の基盤に立っているにすぎない。その上で、富の平等あるいは再配分を主張するのである。/この本(原本)は九二年に刊行された。「グローバル資本主義」がいわれたころである。しかし、この時期にはすでに、イリイチは、自分の過去の仕事の意義を否定するほど絶望していた。以前に書いたことを否定するのではない。ただ、ここまで急速に悪化するという見通しをもたなかったことが間違いだった、というのである。この絶望が、彼を、聖書やヨーロッパ中世の文献に向かわせる。それが、それまでの読者を遠ざけることになった。しかし、彼は過去に向かいつつ、あくまで未来を志向していたのである。」
柄谷はイリイチのように自分の仕事に絶望はしていないようだが、互酬制的な経済システムを志向した「NAM」崩壊後の柄谷にとって、連載中の「革命と反復」(季刊誌「at」)が「理論−実践」としての新展開になるのかは興味深い。