10/30「朝日新聞」の書評への恣意的感想

いまさら言うべきほどのことでもないかも知れないが、短文の書評は書き出しの数行が命である。これはコラムにも共通する。今回は特にその点に注目して感想を述べてみよう。
●『素数の音楽 (新潮クレスト・ブックス)素数の音楽』(マーカス・デュ・ソートイ、新潮社)、書評者:渡辺政隆
「感動と理解は、必ずしも一致しない。たとえば「平均律」の理論は理解していなくても、バッハの「平均律クラビーア」に感動できるように」という書き出だしは、本のタイトルに連動していて巧みですなぁ。本タイトルにある素数を音楽の比喩で語ることは、数学と音楽が緊密な関係にあることを音楽論で知っている人には意外ではない。音楽の情調性は数学的な配分/律によってじつは規定/基底されているのだから。数学嫌いになる原因は、数学教師の技量に依存しているように経験的に思うが、如何だろうか? 評者の渡辺は「一般向けの科学書数学書が面白くないとしたら、それは、内容が難解なせいではなく、読み物としての出来が悪いせいではないか」と問いかけているが、まったくその通りだと思う。
●『震災時帰宅支援マップ 首都圏版震災時 帰宅支援マップ 首都圏編』(昭文社編)、書評者:岡崎武志
「ちかごろ株価を吊り上げているのは村上ファンド地震だ、という説がある」という書き出しは、きわめて時事的かつ今日的な惹句として食い付きは申し分ないだろう。さすがライター稼業の岡崎ですなぁ。そして「「地震」が起きると昭文社の株が上昇するらしい。地震と地図の出版社とどいう関係があるのか。つまりはこの本だ」と畳み込みかけるのは、まさに熟練の技だ。そして岡崎は手際よく本書の内容と売行の理由を解説する。しかもプロとしてのサービス/遊びも忘れない。「いまや揺れて上がるのはブランコに乗る老人の血圧と昭文社の株と言われている」と笑いをとり、しかも文末の節では本書の副次的な使用方法を伝授するというサービス振り。「連絡もせずに帰宅が遅くなった時などにも便利だ。妻の目の前にこの本を出し「いやあ、試しに会社から歩いてみたんだよ」と言えばいい」しかしそんな奴はおらんやろう! と思うのは僕だけだろうか。それとは別に僕が驚いたのは、ATOKの入力変換が「昭文社」を一発変換したことだ。ちなみに、二番手変換候補は「晶文社」だった。
●『黄色い雨黄色い雨』(フリオリャマサーレスソニーマガジンズ)、書評者:小池昌代
「いい小説だ」という書き出しは、シンプル過ぎて芸がないように見えるが、さにあらず。この書き出しには、なんというか詩人・小池の「潔さ」が垣間見えるようではないか。そしてこのシンプルな端的性は「新発売」の広告惹句と同様の威力があるんですなぁ。どう「いいのか」、がぜん知りたくなるではないか。そしてそのよさを小池は「読み終わったあと、虚脱感と充実が同時にやってきて、自分の足裏の底がぬけた」と書く。この「自分の足裏の底がぬけた」という表現は詩人らしくて、いい。そして「それでいて、いまここにいる自分自身が、底のほうから力強くあたたく抱きとめられたようでもある。誰によって? 死者たちによって」と書き継ぐことで、見事にこの本の本質を言い当ているように思える。末尾で本書のタイトルの意味を説明し「言葉を失う小説」であると結ぶのだが、「だったら書評するな」などと小池にツッコミを入れてはいけない(笑)。