(『自転車泥棒』)

過日、紀伊國屋書店MOVIX店で500円DVD『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948年製作)を1割引で購入した。帰宅後、深夜にヘッドホーンを付けて独りで観た。恥ずかしながら僕はこの映画を初めて観る。ケースのジャッケトには「父親と息子の絆を描く、映画史上不朽の名作!」とある。画質はマスタープリントが旧いためかあまりよくはないが、500円なら文句はない。
極貧の父に対する息子の子役の表情と身振り、とくに視線が切なくていい。自転車を盗まれた父は生活苦のために、逡巡しながらもとうとう自分も自転車泥棒をしてしまうという反復は、やはりドラマのセオリーか。その父が今度はあえなく捕まってしまうが、被害者であった父はこのとき加害者に変奏される。その父は車道の中央で人々に取り押さえられ、父の虚ろな表情がアップになる。そこへ路面電車が割って入ってきて一瞬親子の関係は引き裂かれる。がすぐに息子は父を追う。悲痛な息子の表情が被害者に慈愛を呼び起こし、父はその場で放免される。そして親子は手を取り合って群衆の中に消えてをゆくラストシーンを、カメラは背後から追う。親子はどこへ向かうのだろうか? このラストの群衆シーンは、静謐なデモ隊のようにも見えるかもしれない。僕らはそこでさまざまに問われるだろう。「正義とは何か」、息子は親父から何を学び反復変奏してゆくのか? これはある意味では教育的な映画かもしれない。
そう言えば、『ニューシネマ・パラダイス』(ジュゼッペ・トルナトーレ監督、1988年製作)の子役も、『蝶の舌』(ホセ・ルイス・クエルダ監督、1999年製作)の少年モンチョもよかったなぁ。『蝶の舌』のラストシーンは複雑で哀切だ。僕はさきほど「La Vue」14号に寄稿してくれ橋本康介さんの、この映画評を読み直しながら情景が浮かんできて涙ぐんでしまった。