ALS 「NHKクローズアップ現代」(09/02/02)の感想から

★追記が増えました。追記5まで、いろいろあり!

生田武志さんが指摘している「関係の貧困」を援用すれば、「安楽死」容認/「尊厳死」推進論も「関係の貧困」に陥っていると思える。といえないだろうか。
<ある>ということに、どのように向かい合うのか? <ある>ことから/で、自ずから立ちあがってくる<倫理の現在形>の問題だと思っています。
下記の川口さんの批判を勝手に転載しますが、問題があれば削除します。
★追記1:「誤解」はないとは思いますが、川口さんは番組で紹介されている照川さんの奥さんを批判しているわけではありません。批判しているのは番組の作り方/見え方です。そして
「でも、患者会内部では、照川さんの訴えを真摯に受け止めてもなお、/彼の意思は死ぬまで読み取られるだろうという意見が多いです。/それは、ご家族の介護力のすごさや地域医療との連携ができていること/を知っているからです。信頼関係があるからこそ将来こうなったら/殺せと言える。殺されないこと、つまりそうならない未来も/あるだろうと思えるからではないでしょうか」と、川口さんは「関係の濃密」ではなく「関係の豊かさ」を指摘されているのだろうと、僕は思います。
それは「地域医療との連携ができていること」という表現にも表れていると思いますが、その意味では照川さんご本人は僕なんかよりもはるかに「豊かな関係」を生きられているように想像します。むしろ「家族だけ」のに介護による濃密性はむしろ閉鎖的で危険だと思うし被介護者にとってもストレスになるでしょう。
介護は「解放=開放」されるべきで、「家族外」の介護者の視点や関与が有効に働くように、介護費用を含めた環境整備を目指すべきだと思います。

★追記2:「関係の豊かさ」とは、ある意味ではきれい事ではなく喜怒哀楽や愛憎も含めて、<ある>ことから/での「関係を生きる」ことだ。そしてそれは、「潔く」はないかもしれないが、そのことも含めて<ある>ことを肯定することが、「関係の豊かさ」に通じているのではないだろうか。まずは、そんなふうに思っている。
ところで、他者によってそして自己による<承認>に先立って、すでに<ある>ことは前提条件である。この前提条件が、根拠なき/起源なき「肯定」とは言えないだろうか。この肯定感が、他者に対する<呼びかけ>を起動する。いや、思わず<呼びかけ>することから反省的に肯定感情として蓄積されてゆくのかもしれなないが……。

★勝手に転載

こんばんは。ALS協会の川口です。


NHKの番組が話題になっているようなので、患者の家族の立場から
少しコメントをします。仕事が溜まっているので
言いっぱなしになるかもしれませんが、ご容赦ください。


ALS患者の照川さんを番組で拝見して、
すでに意思伝達困難な病態が、よくわかりました。
ご家族の卓越した介護力によって支えられ、意思が伝えられていることも
わかりました。
たぶん、一般の人には、すでに意思疎通不能と思われるかもしれません。
ご本人はまだ大丈夫だと思っておられるかもしれませんが。


多くの患者さんは、照川さんみたいに恵まれた療養環境にはいません。
今日、橋本みさおさんと厚労省に行き、経営困難な介護施設の支援をお願いしてきました。
もし潰れたら、そこに入院中の呼吸器をつけた患者さんは路頭に迷ってしまいます。
家族介護が破たんし行先を失ったために、そこに永久入院しているのですが、
わがままは言えません。在宅独居も達成した患者も片手で足りるほどしかいないのです。
献身的に介護してくれる人がいなければ、ALSは呼吸麻痺で
死ななければならない病気であることは今も昔と変わりありません。
しかし、いまは法律によって守られています。呼吸器を外せないので
いったん呼吸器をつけてしまえば、死なずに済むから、医療やケアをする側に
改善を要求することができるので。


先ほど拝見した照川さんが、もし長期入院中なら看護師次第で
とっくにトータリーロックトインにできるとおもいます。
そして、もし、事前指示により呼吸器が外せるのなら、
施設の都合で呼吸器は外されてしまっているかもしれませんし、
病院の倫理委員会も事前指示書があれば、家族に訴えられないので
迷いなく外すと思います。


番組ではまるで、患者の従前の自己決定による
治療停止の容認について問題提起しているかのように見られましたが、
患者がTLSになってから呼吸器を外すということは
実際は、ケアを行う者のケア(のなさ)によって、
呼吸器を外すことになります。
たぶん、ALSのケアをよく知らない人が作った番組なので
ああなったのでしょうが、番組が投げかけているのは
ALS患者だけの死ぬ権利ではなく、障害者の安楽死です。
重度障害者の安楽死がテーマです。


意思伝達が困難な重度障害では
・コミュニケ―ションとは、伝える者よりも読み取る者の努力によって
成立している。
・介護する者が読み取りを止める時が、本人の意思が伝えられなくなる時


これはALSだけでなく「重度障害者全般に共通」しています。
だから、この番組のテーマはALSだけの問題ではなく、
意思伝達困難な障害者やどんどん悪くなる進行性難治性疾患の者の
安楽死をどうしよう」という話になってしまっています。


そう言った意味では、今回の番組は以前と同様に
残念ながら勉強不足ですし危険なものでした。
またしても、何も知らないALS当事者や
関係者の恐怖をただあおってしまったとおもいます。


それに、障害者とのコミュニケーションのことなど
考えたこともない一般市民は、照川さんみたいには絶対に
なりたくないと思ったことでしょう。
今この時を生きている彼の尊厳も、家族の読み取りの努力も
今夜の番組からは伝わらなかったと思います。
いつかやってくる暗闇を想像させてしまいました。
でも、患者会内部では、照川さんの訴えを真摯に受け止めてもなお、
彼の意思は死ぬまで読み取られるだろうという意見が多いです。
それは、ご家族の介護力のすごさや地域医療との連携ができていること
を知っているからです。信頼関係があるからこそ将来こうなったら
殺せと言える。殺されないこと、つまりそうならない未来も
あるだろうと思えるからではないでしょうか。


クローズアップ現代」が、重度障害者や患者の安楽死ではなく、
そういった患者の治療に対する自己決定を支持するつもりなら、
「いつまでも意思を読み取れる体制を作れ」
「家族に頼るな」「療養環境を整えろ」
という主張を、今後は繰り広げていただきたいです。


番組中、「神様がくれた命だから粗末にできない」という患者さんも
出てきましたが、それでは呼吸器をはずしたくない患者や
反対している者は、あたかも宗教が理由のように思われてしまいますね。
アメリカの状況を意識して意図的に信仰の厚い患者を
出したのかもしれないですが。


以前、脳波スイッチ「MCTOS」のトレーナーで有名な仙台の
橋爪先生にインタビューしたとき、ALSの安楽死賛成論を
「まず意思を読み取るほうが先」と一言で片づけられました。
「意思」は「本音」でもあると思いますが、
これはまったくそのとおりでしょう。
私たちがすべきことは、患者を殺してあげることではなく、
最後までその意思(本音)を読み取ることを諦めないことだと
教えてくれました。


そして、明石のMCTOSユーザーの少年や
ALSでトータリロックトインの患者さんたちは
何か意味のある言葉のやりとりだけが、
人間のコミュニケーションではないこと、


言葉など適当でもコミュニケーションは可能だと
教えてくれました。
どなたもみなバイタルもよく、ゆったりと過ごしています。
深い海の底に沈んでいく、、という恐ろしいイメージは所詮
健常者の想像の範囲でしかないのでしょう。


私も最初はそうだろうと思っていましたが、
長期療養のおしまいのほうを
生きている患者さんは、ほとんど一日中寝ていますし、
もう文字板もとられませんが、
その姿はむしろ、あらゆる煩悩から解放されて、
ALSからも自由になった印象を与えてくれます。
穏やかな老衰のような感じで静かに休んでおられます。


長くなりましたが、障害の視点から、
コミュニケーション困難な者からの呼吸器外し、つまり、
重度障害者の安楽死に反対する意見が盛り上がることを祈っています。



川口

追記3:以下はこのエントリーへのコメント欄の再掲です。

質問です 『照川さんのご夫人が「その苦しさに耐えても生きよと
他者が言うことは傲慢だ」とおっしゃっていましたが、
その言葉を、あなたはどう聴きましたか?』(2009/02/03 13:07)

質問の2です 『マクトスを付けた少年やTLSの方が
「何か意味のある言葉のやりとりだけが、
 人間のコミュニケーションではないこと、
 言葉など適当でもコミュニケーションは可能だ」
と教えてくれたそうですが、彼らは「それで満足
している」とも教えてくれたんでしょうか?


そもそもTLSの患者さんが「・・・可能だと教えてくれた」
というのも変だと思いますが。川口さんが勝手にそう感じた
に過ぎないとは思いませんか?』(2009/02/04 01:02)


kuronekobousyu 『ハンドル名も記さない、通りすがりの一方的な質問者に応答する義務はないように思うが、最初の質問では質問者の背景や問いのニュアンスが不明だったので、本文エントリーに「追記」を書くことで間接的に応答した。
自分の意見を開陳することをしない質問者には、それで充分だろうと思ったが、質問2において僕や川口さんの立ち位置を批判したいのが本音であることが、判明になったようだ。

それで自分の整理の意味もあって、ポイントを絞って回答してみることにする。


>照川さんのご夫人が「その苦しさに耐えても生きよと
他者が言うことは傲慢だ」とおっしゃっていましたが、
その言葉を、あなたはどう聴きましたか?


照川さんのご夫人がどのような文脈で、そのような発言をしたのかによって、質問者の意図と照川さんのご夫人の気持ちとはズレている可能性があるので、質問者はワザとその辺りをネグッている可能性があるだろう。


1)「その苦しさに耐えても生きよ」と言う前に、まず他者がすべきことは最大最善の配慮・処置によって、その精神的・身体的苦痛を取り除くべく医療的・社会的環境整備をすべきである。それらのことを何もしないで「耐えよ」というのは、確かに傲慢である。
2)上記1のことを踏まえた上でも、苦痛が軽減できないことはもちろんもある。その場合にでも「その苦しさに耐えても生きよ」と言うことが、必ずしも傲慢でない場合もあり得る。それは関係の密度や豊かさによって変位してくるからだ。


>そもそもTLSの患者さんが「・・・可能だと教えてくれた」
というのも変だと思いますが。川口さんが勝手にそう感じた
に過ぎないとは思いませんか?


その可能性はあるでしょうが、質問者が考えている「苦痛」や「満足」も勝手に想像しているものではないでしょうか?
だから橋爪先生の言葉を借りれば
「私たちがすべきことは、患者を殺してあげることではなく、最後までその意思(本音)を読み取ることを諦めない」ことなのではないでしょうか?


よく尊厳死推進派の方は「無駄な延命の停止」という言葉を遣いますが、この場合の「無駄」というのは、その時(延命中)の当の本人ではない、他者の延命処置状態を観察したことや識者の意見に影響されています。
しかし自分がそのような事態になった場合には「本音」は変わっているかもしれません。「現在の私」が「未来の私=他者」に対して「無駄な延命」という言うのは、むしろ傲慢ではないでしょうか? 「自己決定」とは保証されるべきだが、その適応範囲や賞味期限というのも考える必要があるだろう。』(2009/02/04 09:38)

★追記4:以前、医療現場における自己決定について考えたレジュメです。→http://homepage3.nifty.com/luna-sy/kagakure1.html
★追記5:勝手に転載してご迷惑をお懸けしているのではと怖れていましたが、ご当人からのコメントをこの場に再掲しておきます。
僕はこれまでに川口さんのご講演を2回ほど聴講したことがありますが、ある会場で車椅子のALS患者さんが川口さんの話を聞いて「呼吸器」をつけることへの怖れがなくなって安心したという、コメントをしたのが印象的でした。

ajisun 『kuronekobousyuさん、わたくしの拙い感想文をとりあげていただき、どうもありがとうございます。


耐えがたい苦痛についてですが。(自分とこに書かずにすみません)一部の関係者が、勝手に「苦痛がない」と思いたいのだろうというご意見はよくいただきます。
そういわれると戸惑うのですが、私は以前は、どちらかといえば、苦痛の解決が不可能ということが証明できれば、こういう人の安楽死には賛成でした。でも、毎日こういう患者をチームで介護してきて、朝昼晩ずっと観察してきましたら、どうも社会通念でいわれる「絶望的な苦痛」とは違っていることがわかりました。


「苦痛から解放されるようにできている」。人間はあらかじめそう作られているように思えて仕方がないのです。「脳内モルヒネ」が沸いてくるんじゃないかと思ったりもしました。だんだんバイタルが落ち着いてくるのです。そのような状況にさえ、人間は馴れていけるというのは、実際の介護をしながら患者さんから教えてもらったことです。
苦しさを言えば、患者も家族ももっとも苦しいのは、意思伝達ができなくなる前後の数か月です。呼吸器を外すのならその期間でしょうが、まったく意思疎通ができないというのではなくて、こちらの言っていることにいちいち顔色や発汗、動悸、血圧すべてで反応するので、患者はむしろ、とてもたくさんのことを伝えてくるのです。不安、恐れ、そして、適切なケアで応えることができたときの安ど感も。すーっと脈拍が下がるのでわかります。顔色も真赤だったのが白くなったりする。外に出てそよ風を感じたり、木漏れ日が顔に落ちていたりすると、とても満足した顔つきになったりしmす。自然のめぐみに感動してるのがわかる。
 そして、呼吸器をはずすなんて、ベッドサイドでそんな物騒な話をしたとたんに、ものすごい恐怖に襲われてしまっているのもわかる。私は患者を殺しかけて途中でやめたことがあるのですが、その時、患者は「死」の恐怖に隣接して震えていました。その顔をみながら呼吸器をはずしたら、殺人以外のなにものでないです。慈悲殺でもない。死を怖がっている人から呼吸器を外すんですから。その恐怖の反応をみて、カニューレにコネクターを戻しました。。
 でも、このような状況が長くつづくと、今度はどんなに怖い話を枕もとでしても、反応しなくなってしまいます。脳波を測ると、呼びかけには反応するんですが、すぐに静まってしまって、アルファ波にもどってしまう。世の中のことに一切関心がなくなり、まるで座禅中のお坊さんのように、穏やかに一日を過ごしていました。家族にはそれが辛いということもあります。自分たちのことさえ、たぶんもう何も心配してくれていないのがわかるので。脳が委縮するという話もある。でも、そのようにやっと静まった患者に、ケアが楽になったことを感謝する家族も少なくないのです。そのような家族の中では患者の存在が尊ばれています。ここまで生きられる患者は稀で、よほどケアがよくなければ、ここに至る前に肺炎や呼吸器はずれなどの事故、余病で亡くなってしまいます。また、ケアが悪くなれば、このまま長くは生きられません。本人が何も伝えられなければ、介護者のミスで亡くなってしまいます。家庭から介護施設に移されれば呼吸器をつけたままの窒息死、なんてこともあるくらいです。
 ケアがよいからこそ、発現する最終的な病態であることも、そのままのケアを続けるからこそ、長く生きられる病態であることも付け加えておきます。また、苦痛を感じなくなった人は死にたいとも思っていないので、死なせる必要があるのだろうか。もし理由があるとすれば、それはその時の本人の希望や、状況以外の理由によることになりますが、そのようにして死なせることが、倫理的にどうなのかということは、いまもって満足に議論されていません。』(2009/02/07 10:59)


★併せて、http://d.hatena.ne.jp/ajisun/20090205 もお読みください。