「哲学的腹ぺこ塾」のレジュメをアップしました。

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

さる6月4日の「哲学的腹ぺこ塾」では、吉本隆明の『最後の親鸞』をテキストに読書会を行った。その際のレジュメと資料をWebサイトにアップしましたので、お知らせいたします。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapekore63.html
その際の黒猫房主の<口上>も、下記に転載します。

親鸞がその「往相」において<知>の頂きを究めた後、つまり「還相」において吉本隆明がかんがえるところの「最後の親鸞」が到達した<非知>とは、まったくの<愚者>になることであった。

しかしそれは「存在すること自体が、絶対他力に近づく極北であるような存在」、つまり「じぶんからはけっして(信心を)おこさない非宗教的な存在」を超える(止揚する)思想/境涯としてあったのではないだろうか。そして世間の「有限の倫理」に対して「無限の倫理」を、自己欺瞞に陥ることなく<信>として指し示すことにあった。だがそれは可能なのか。

それゆえに親鸞は<業縁=契機>の不可避性を深化させ、「計らいとしての自力作善=有限の倫理」を徹底的に否定するが、そのことが/で、親鸞は「党派・教団としての宗教=絶対他力の理念」をも解体させ他宗派も無化する。吉本隆明の理解に立てば、<信>と<不信>をつなぐ根源性と普遍性を獲得したのかもしれない。

最後の親鸞は「弟子一人ももたず」と言い放ったがそれは果たされず、後々に浄土真宗が巨大な教団になってゆくのは、「念仏すれば(因果的に)救われる」という、それすらが微かな「計らい」の自力を滲ませてしまうイデオロギーへの変質であったに違いない。

これは党=教義の信心を固くすることによって正義がなされるという態度ともどこかで密かに通底しているように思えるが、それは「倫理主義」であっても自ら立ち上がってくる<倫理>からは乖離しているように思う。この言い方はとても吉本的だ。そんな声が木霊する。

そして親鸞も吉本も現状肯定の追認に荷担しているだけの居直りではないのか。とくに吉本は! そのような批判が周辺から聞こえてくるようだ。だがそれこそが「倫理主義」からの強迫とも言えるし、倫理的強迫がなければ人は利己的に堕落するいっぽうだと言いたげだ。

しかしそれは「ただあること」の存在性を否定する思想に自ら荷担することになりはしないのか。つまり有用性において存在を序列化する思想への荷担ではないのか。 それで/だから、人は「ただあること」だけの肯定には堪えられないので、存在することに対してなにがしかの価値や意味を付与しようとするのだが、それではけっきょく有用性に回収されてしまうほかないのではないのか。
その辺りを如何にかんがえるかということを課題にしたい、と思っています。

テキストの『歎異抄』は、本願寺出版版、岩波文庫版、中公バックス版などいろいろありますが、現代語訳の異同を読み比べるのも興味深いでしょう。

さいきんの吉本隆明は「存在倫理」ということを言っています。
この存在倫理とは、生まれてそこに<いる>こと自体が、<いる>ということに対して倫理性を喚起するというものです。立岩真也の「ただあること」の肯定性にも通底しているように思います。

この存在倫理は、また親鸞の『歎異抄』第五章にも通底していると芹沢俊介は指摘していますが、その点については例会でお話します。

 ……さて倫理性を喚起するとはどのような事態を指しているのだろうか。自分がいまここに自分として「いる」ことにおいて、自分および自分以外の存在に対して感じる肯定的反応、同じことだが自分という存在および自分以外の存在が生きてここに(この世に)「いる」(ある)ということに対する肯定的反応ととりあえず言ってみる。これからもここにありつづけることに対する肯定的反応。こうした肯定的反応は、生まれたことに対する根源的な肯定性に根拠をもつのではないだろうか。(芹沢俊介吉本隆明の『存在倫理』をめぐって」p113、『還りのことば:吉本隆明親鸞という思想』雲母書房

還りのことば―吉本隆明と親鸞という主題

還りのことば―吉本隆明と親鸞という主題

また以下に、菅谷規矩雄の見解を引用します。
ここで、<相対>と名指されているのは、有限の生を生きる<私の切実さ>という感じでしょうか。
<有限な私>が、いっさいの自己欺瞞をもつことなく<絶対>を信じることができるのか?
そこで、<信>としての<不可避性>が理路として呼び込まれる。

<信>〔信〕と〔不可避〕(菅谷規矩雄)

 わたしが理解しえたかぎりでは、<信>をめぐる吉本隆明の思想は、おおよそ以下のような輪郭と構造をなしている。
 まずわたしたちは、概念のカテゴリイを、三通りの対立項の相互関係という位相にみいだすことができよう。すなわち(真/偽)、(信/疑)、(絶対/不可避)である。
 吉本隆明が<信>をめぐる思想の究極においてもとめているのは、<不可避>は、思想の概念として、それじたいの理路を成立させることができるか――という問いの解答であるとおもう。もし、<不可避>が理路として成立するならば、<絶対>にたいして<相対>を、最終的に、救出しうるみちがひらかれるだろう。
 言いかえれば、そこで<絶対>が解体する――そして<真>が、つねに<相対>の視野のうちでとらえられるものとなる。けれども、<相対>という意志や観念は、それが観念であろうとするかぎり、観念そのものの<存在>によってのりこえられてしまうという危機をはらんでいる。つまり、<相対>がみずからを<疑>にさらすことによって、<信>の倒立像をよびこんでしまうのだ。
 このときはじめて、<相対>は、<信>の内部をのぞきこみたいという欲求をいだく。するとそこで、そとからみられた<信>とは、なによりも、たえず<疑>にさらされている<存在>としてあらわれ、そしてこの<存在>は、どこまでひろく、かつ深く、<疑>を内部によびこむことのできる思想であるかを――そとにたいしては、告げていることが、あきらかになる。
 思想としてみれば、<信>とは、その内部によびこんだ<疑>の深さにほかならない――そして、<信>が、みずからのそとに告げることができるのは、その点につきる。新約書のイエスが、また、歎異抄親鸞が、吉本隆明をひきよせたのは、この点であったとおもう。

現代詩手帖臨増「吉本隆明」Ⅱ1986、より)