机の談から想い出話など

猿虎さんのブログで、屁爆弾さんが間違って僕をご召還いただいたので、参加/投企してコメントしました(笑)。そこで、さらにコメントに加筆して以下に認めます。http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20051020
僕はずいぶん以前(70年代)に、東京の茗荷谷の古道具屋さんで桜木製の重厚な机を格安で購入したことがあります。当時住んでいたのは東京の護国寺で、そのあと横浜に移転した際にもその机は同行しましたが、そのまたあと東京の谷中に移転した際に(この当時の想い出は、旧「黒猫房主猫の周辺」http://homepage3.nifty.com/luna-sy/boushu.htmlで読めますが、註として下記に転載しておきますね)、その机が階段が狭くて通過しないことが判明して、やむなく件の古道具屋さんにスチール製の机と交換して貰ったことがあります。桜の木ですから旧くなるほどいい味が出ていたので残念でした。古道具屋さんによれば、桜の木なので旧くなっても表面を削れば新品になると言われ購入したのですが、当時の価格でも5000円くらいだったと思います。当時の僕の可処分所得からして1万円前後の買い物はしていない(苦笑)。
そのコメント欄で猿虎さんが、山上たつひこの初期の傑作『光る風』に言及していたのが嬉しかったです。モンテクリスト伯の話から『光る風』のある情景にジャンプするのは、かなりマニアックな感じがしますが(笑)。同漫画は現在はちくま文庫で読めますが、僕は朝日ソノラマ版の初版を持っています。最近読み直したのですが、やっぱり傑作ですね(因みに、僕は「コミケ」の最初期に参加しています。当時はまだ板橋産業会館とかのしょぼい会場でしたが、ここまで大化けするとは想定外です。コミケ代表の米澤氏は同じサークルの一年輩なのです)。僕は某書店の「60年代〜70年代ブックフェア」の選書にこの『光る風』をノミネートしたのですが、残念ながら外されていました。僕の説明不足が敗因でしょう(苦笑)。僕はこの漫画を素材に吉本隆明ナショナリズムに絡めて稚拙な文章を書いたことがあります(苦笑)。

註:■1999/12/29(下弦)
JCBが発行している「CARDAGE」の最新号が、「新春、東京下町散策」を特集している。
その特集の中には、黒猫も住んだことのある「谷中・根津・千駄木」(やねせん)の取材記事も載っていた。
黒猫が当時仮寓していた、しもた屋(仕舞うた屋)の二階からは、通りを面して江戸千代紙の「いせ辰」の店先がよく見えた。その店は週末には観光客風情の男女がよく訪れて、賑わっていたもんだが……。なんて、懐かしがりながらその記事を読み始めた。
黒猫が暮らしたその下宿先は、地下鉄・千代田線「千駄木駅」から徒歩二三分の古い家屋で、一階は居酒屋を営んでいたようだが、黒猫が引っ越して来た当時はすでに廃業していた。黒猫の部屋は東南角部屋で通りに面していたので、至極日当たりはよかった。面していた通りは坂道で、確か首振り坂と呼ばれていたと思う。この坂を下りきると忍ばず通りと十字にクロスする。そしてその反対側に続く登り坂が団子坂と呼ばれ、江戸川乱歩の小説の舞台にもなったところである。
その坂の途中には森鴎外記念図書館があって、よく利用していた。その坂を上りきった辺りのお寺の近所に、吉本隆明の家があるとは聞いていたが、見に行ったことはなっかた。が、谷中で吉本さんとすれ違ったことは何度かあり、そんな時は少し興奮したものだった。
その十数年後にある雑誌(註)の対談の構成記者として、その吉本さんとお話する機会を得た。噂通りに、人と目を合わさない謙虚な物言いと、その腰の低さにはこちらが恐縮するほどであった。
その一年後、あの海水浴事故で吉本さんは、九死に一生を得ることになる。その吉本さんが、評論家として双璧の江藤淳の「自死」に対して、「いい加減装置」=隙がなかった、と評している。
渋谷陽一によれば、「いい加減」によるサバイバー(生き残り人)である吉本さんは、最終的に追い込まれない装置があった、とのことである(この部分は、孫引きによる)。
話が転変してしまった……。

★註★ある精神医療系の雑誌に掲載するための対談だったのですが、その雑誌が3号であえなく廃刊、版元も倒産したのでその対談記事は永らくお蔵入となっていました。それが今夏、『時代病』(吉本隆明高岡健、ウエイツ刊)の第一章として復活しました。誠に喜ばしい限りです。