pipi姫さまが<「時間とあいまい」…鶴見俊輔論>で、


鶴見の言い淀みと曖昧さについてを書いています(http://blog.livedoor.jp/pipihime/archives/50075074.html)>。興味深い論考なので黒猫房主も少しコメントしましたが、それを再録補正します。

なんかタイムリーですね(微笑)。『戦争の遺したもの』を再読していたところです。
僕の思想の先達は鶴見俊輔吉本隆明なんですが、この気質の違う思想家を継承しているのが加藤典洋だと思います。なので典洋の言いたいことの気分はよく了解できます(必ずしも「同意する」という意味ではありませんが)。たとえば典洋が感じている高橋哲哉のある種の「倫理主義的語り口」への嫌悪は、「絶対正義」への鶴見の嫌悪とも通底しているように思います。この辺は僕も通底していますねぇ。「言い淀むことの可能性」は、この「絶対正義」をも相対化する視点を確保するのではないかしら。(★註 鶴見が高橋哲哉を嫌悪しているという意味ではないので、念のため。)


さて先のコメントで「思想の先達」なんて大仰な書き方をして、ちょっと恥ずかしい(苦笑)。
鶴見さんの「言い淀むことの可能性」は単に言い淀むのではなく、すぐに言わないことの「精確さ」という性質も併せ持っているように思います。これは「マチガイ主義」とも通底しているように思います。だから、言い淀むスタイルは「停滞」ではなく、行動への内発性というか発酵度が高いというか、「声高でないこと」に反比例して思想の強度と実践性をもっているように思います。つまり「言い淀むこと」を「しないこと」の言い訳にしていないわけです。

これに続けて少し書いてみようと思います。
「精確さ」というのは、もちろん「正確さ」ではない。「正しいことを正しいように言うこと」ではなく、試行錯誤しながら間違ったことを学習する中から「正しさ」の方向感覚を探る手法が、鶴見の「マチガイ主義」ではないかと理解している。
それと、鶴見は言い淀んでいるばかりではなく、決然と言い切ることも多いと思う。例えば孫引きだが、下記を引用する(藤原書店からDVD化された『老年礼賛』の書籍版とも思える『まごころ』から。>葉っぱ64さん、サンクスです)。

[…]自分は頭が悪いということがはじめてわかったんだから、これは財産です。

 その立場から見ると、知識人がアジアとの連帯とかいろいろ言うでしょう。あれは大変に浮いて聞こえるんだな。私だってアジアとの連帯なんてなかなか言えないですよ。朝鮮語一つ、楽にしゃべれないんですから。そうするとね、アジアとの連帯というもので、じっさい自分でできることは、在日朝鮮人の作品とちゃんとつきあうことなんです。それはやれることなんです。だからことに東北アジアにあるものが大切で、これが世界を変えていくという思想があるときに、私個人にとっては、というか多くの日本人にとってもそうですが、日本にいる七十万人の在日朝鮮人とどうつきあうかという問題が、それはできることなんですよ。それが鍵だと思うね。その人たちは自己内対話をもっている。そこには犀がいる。そういう問題がわからないと困ると思うね。(p42)

この鶴見の発言は、強烈なジャブだ。鶴見は「朝鮮人」という研究誌を自ら発行していた。そいう静かな実践をしてきた知識人だからこそ言える発言だと思う。

pipi姫さまによれば、研究者・原田達さんが雑誌『Becoming』16号に、鶴見俊輔の「言い淀み」を生むもうひとつの要因、「あいまいさ」にも言及し、鶴見俊輔は矛盾するものをそのまま受け入れる思想家だという趣旨のことを書いているそうだが、この「あいまいさ」と「矛盾の受容」は鶴見の方法性というか戦略だと思う。鶴見の言葉に「温泉民主主義」(*「銭湯の民主主義」に訂正します)というのがあるが、これは赤の他人同士が裸で風呂に入り合うことの対等性と可能性を言い当てた、鶴見流のアナーキズムだと思う。
そして矛盾の受容とは、鶴見が矛盾を止揚しない「反-弁証法的態度」を貫いていることを意味していよう。それはまた僕たちが共に生きてゆくためには、ある種の「あいまいさ」への共感と適度の「隙間(アソビ)」が智恵として必要であることを示唆しているようにも思える。だからと言って、(急いで言うが)当然ながら鶴見が矛盾やあいまいさに居直っていることを意味しない。(続く)