尊厳死法促進と教育基本法改悪の関係


図書新聞」11月4日号に、宇和島での臓器売買事件を契機とした臓器移植問題に関する、小松美彦氏へのインタビュー記事が掲載された。
活字になった部分は全体の約三分の一であり、そのロングバージョンを下記の図書新聞サイトで読むことができる。
宇和島の件については、どのマスメディアも報道していないことも語っているそうで、最後部分では「教育基本法」の改定問題との関係にも言及している。http://www.toshoshimbun.com/SpecialIssuepages/nousi/review1.html

その「教育基本法」の改定問題の部分を下記に引用する。

日本の場合は特に教育基本法の改定と連動している、と私は見ています。というのは、現在の臓器移植法の改定にあって、A案とB案の提案者のいずれも「脳死や死の教育を普及しなくてはいけない」と力説しているからです。このことで秀逸な教育がなされるはずはなく、「脳死状態で社会に迷惑をかけるのなのら、自分から臓器を提供しよう」とか、「社会のため、国家のために臓器を提供する子はよい子」といったイメージ教育がなされかねない。教育基本法が今の方向で改定されると、一人ひとりの児童や生徒が一個の権利を持った市民・国民ではなく、事実上“臣民・少国民”に変わってしまうでしょう。国家のために奉仕する子どもたちを作る一環として、社会・国家のために臓器を提供する子どもが位置づけられていくわけです。既に、誘導的な尊厳死安楽死教育は小中高で広がっており、担当教員もどこまで自覚的かわかりませんが、授業パターンがほぼ決まっています。植物状態や様々な闘病生活で厳しい状態にある人の映像を見せたり文章を読ませた後で、例えば「尊厳死安楽死という方法があります、その上であなたはどう考えますか」と教師が問いかける。こうして、やはり尊厳死安楽死を選択すべき、という発想が生徒に涌出するように導いている。フーコーアガンベンの「生−権力」の現代版です。ですから教育基本法の改定に異議を唱えている方は、臓器移植を初めとした医療問題の先端で起こっていることにも視野や射程を広げていただきたいのです。

★「宇和島での事件を機に、小松美彦氏に聞く」(図書新聞 2006.11.4日)より http://www.toshoshimbun.com/SpecialIssuepages/nousi/review5.html

僕はこの間、教育法基本法改悪の本質は国家への「自発的服従臣民」の育成にあることを主張しているが、別の言葉で言えば「生−権力」への服従だ。
小松善彦氏は《「社会のため、国家のために臓器を提供する子はよい子」といったイメージ教育がなされかねない》と指摘しているが、徳目の「中身」や「前提」が無批判に「正しい」倫理規範として教育されることは、「個人としての批判理性」を解体させる教育に繋がると思う。

一昨晩(11/4)、NHKのETV特集「第157回 学校が変わる 子どもが変わる 〜民間人校長・4年目の挑戦」、リクルート出身・藤原和博校長の「よのなか科」の授業を観ていて思ったのだが、確かに現場の人間(職人さんからゲイまで)を講師に連れてくる授業や模擬裁判のディベートは、退屈な授業よりは刺激的で面白い。そして両極端の事例を示して教師が「結論や正解を教えないこと」が大事だという藤原校長のスタンスも評価できるのだが、現在の「よのなか」の前提を問題にしていないように思われた。それだと結果的には現状の追認を強化してしまう可能性もあるのではないかとも感じた。
TV特集のしかも編集された部分的な授業風景だけで判断するのは拙速だが、あれで「いまの世の中のあり方、これでいいのかなあ?」という問いのモチベーションが生まれるのだろうか?http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html


ここでメタ批判、「教えることは、よいことか?」。
学ぶ側の立場からすると、保守派/革新派がいくら彼らの主張を強権的に教えてきても身につかないということがありえる。学ぶ側が仕方なく面従腹背/背面服従することはあっても!
だとすると、「よのなか科」のような教え方が、もっとも主体的/自発服従的な学びの態度を教育しているということにもなるだろう。
「よのなか科」の授業を誘導しているのはもちろん教師なのだが、教師じしんが権力的に誘導していないかのようにその権力性が、無自覚にあるいは巧妙に隠蔽されている。そのことが、問題であると思う。
これは、小松善彦氏の先の引用文で指摘する事例と同じである。

既に、誘導的な尊厳死安楽死教育は小中高で広がっており、担当教員もどこまで自覚的かわかりませんが、授業パターンがほぼ決まっています。。植物状態や様々な闘病生活で厳しい状態にある人の映像を見せたり文章を読ませた後で、例えば「尊厳死安楽死という方法があります、その上であなたはどう考えますか」と教師が問いかける。

現代の「生−権力」は強権的には表出してこない。選択肢を誘導した上で、自発的に決定をさせる。そして自己決定だから自己責任だと。きわめて巧妙にソフトケイトに私たちに「自発的に服従せよ」と、<内面>に囁いてくる。だからこそ改悪法案は「心の教育」が目指されているわけだ。


僕は教育行為は否定しないし必要だとも思うが、それが果たして「よいことか」はわからない。それは「何をよいこととするか」に関わってくる。だからどのような教育であっても、それが権力的であることを教師自ら明示しておくことによって、学ぶ側の批判力を高める装置が必要であると思うが如何であろうか?(当たり前過ぎるかな? 笑)