「デカルト的自己」とは?


「不連続な読書日記」で中原紀生さんが、「デカルト的自己」の省察を展開されている。その3回目で、永井均のかんがえる<この私>とデカルトとの関係にちょっと触れている。→ http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20061009

そこで少しコメントしてみるが、その前に僕が以前に書いた旧い日記を下記に引用する。

■2000/01/28(下弦の月
先週の日曜に、「哲学的腹ぺこ塾」を行ったが、新年会を兼ねたせいか9名の参加者を得て盛況であった。
テキストは、デカルトの『方法序説』だったのだが、報告者Mさんによるクリプキ言語哲学を援用した解読は、ユニークで面白かった。
しかし黒猫は、今回の再読で永井均の〈独我論〉とデカルトのコギトとの関連性に注目している。
永井は『他者』(『〈私〉の存在の比類なさ』勁草書房・所収)において、
「近代的であるとは、いっさいの唯一性を否定し、すべてを同等なるものの複数性において語ろうとする志向性をもつことであるのに対して、ここでデカルト的であるとは、本質的に隣人(同等なるもの)をもちえない唯一なるものとしてのこの私の存在にどこまでも固執することを意味するからである。近代とは、ひとことで言えば、等質空間の捏造の時代であり、デカルト的であることは、まさにその等質性こそを疑うことなのである」と言ってる。
デカルトは、方法的懐疑の末に「コギトしている私」を、これ以上疑えないものとして、明証的に確実に捉えるのだが、それは同時に永井の説くこの〈私〉にも突き当たっているように思う。
「わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものとしている〈魂〉は、身体〈物体〉からまったく区別され、しかも身体〈物体〉より認識しやすく、たとえ身体〈物体〉が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない。と」(『方法序説岩波文庫版より)
永井もウィトゲンシュタインに倣って〈魂〉という言葉を使っているが、この引用箇所で出てくるデカルトの〈魂〉の記述を読んで、永井が「個別化された脱人格的自我」をして〈魂〉と置き換えていることに合点がいった。しかしこの〈魂〉は「最も重要な意味において隣人をもたない」故に、この〈私〉と一致するわけなのだ。

中原さんが引用している「エコロジカルな私」(河野哲也『〈心〉はからだの外にある』)とは、死ぬ存在としての身体的自己とか自己免疫系自己のことであろう。あるいは、「環境としての身体」とでも「状態としての身体」でも言い換えられるかもしれないし、脳不全状態=「脳死の人」との関連も問われる自己のことでもあるが……永井の言うところの「個別化された脱人格的自我」をして〈魂〉と言われるものとは、明らかに異質な<私>である。

「私は在る、私は存在する。これは確かである、ではどれだけの間か? すなわち私が考える間である。というのも、もし私がすべての思考をやめるなら、その瞬間に私が在ることをまったく停止する、ということがおそらくありえるからである。」(第二省察,47頁)。

「できるものならだれでも私を欺いてみよ、しかし私が何ものかであると考えている間は、私を無であるようにすることはできないだろう。あるいは私が存在することはいまや真であるからには、私が存在しなかったということを、いつか真にすることはできないだろう。」(第三省察,60-61頁)

中原さんは、ちくま学芸文庫版の上記の部分を引用しているが、「私が考える間」という<間>に注目してみよう。僕はこの<間>のことを永井均がかんがえるところの、その都度の/に<いま、ここ>として開闢する<現実=私>、というように変奏できるのではないかと思う。<現実>とは<この私>が臨在していること(<いま、ここ>)である。(永井均『私・今・そして神――開闢の哲学』講談社現代新書

このエントリーのテーマは、続くかも知れない……。

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

 
「私」の存在の比類なさ

「私」の存在の比類なさ

 
デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)

デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)