「カルチャー・レヴュー」65号

本文は、http://kujronekob.exblog.jp/ にてお読みいただけます。

■目 次■
◆連載「文学のはざま2」番外編:韓国旅行のなかであれこれ考えてみた文学随想-------------------------村田 豪
◆連載「映画館の日々」番外編:フェミニズム、科学、身体性――f事件を 散歩する(1)-----------------鈴木 薫

◆INFORMATION:トークセッション「所有と国家のゆくえ―――別の資本主義はあるか?」(稲葉振一郎×立岩真也×塩川伸明)/『音の力』関西上陸編〜独立音楽愚連隊、ミナミへ」/第65回「哲学的腹ぺこ塾」

◆黒猫房主の周辺「知的な態度/科学的な態度」------------------黒猫房主


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★本誌への投稿も募集しております。
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★66号は、06.10.01の刊行予定です。


★黒猫カレンダー・プロジェクト発動!★
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「黒猫」のみを掲載したカレンダーって、なかなか売っていませんよね!
それで、いっそみんなで作っちゃおうという参加型のプロジェクトです。
「黒猫」のみを掲載した、2007年度版カレンダー製作に向けて、全国の黒猫好きの方々からの投稿写真を募ります。



●●●●INFORMATION●●●

トークセッション「所有と国家のゆくえ―――別の資本主義はあるか?」 
稲葉振一郎×立岩真也×塩川伸明

 ■日 時:06年9月16日(日)19時より
 ■場 所:ジュンク堂書店池袋本店
  http://www.junkudo.co.jp/newevent/evtalk.html#yukue

不平等や格差の広がりを懸念される今日、もう一度原点に立ち返り、いまある「所有」や「市場」の仕組みを考え直すことにより、よりよき社会や国家を構想できるのではないか?

『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス)で刺激的な対論を繰り広げた稲葉振一郎氏・立花真也氏の二人と、ゲストの塩川伸明氏が、マルクス主義社会主義の功罪を検証しながら、「もう一つの」資本主義はあるのかを語り合う。稲葉氏による「トークセッションに向けてのメモ」が、下記のサイトで閲覧できます。http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060826/p4
所有と国家のゆくえ (NHKブックス) 
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★『音の力』関西上陸編〜独立音楽愚連隊、ミナミへ

 ■出 演:大熊ワタル/おーまきちまき/趙博/チンドン通信社/ヒデヨヴィ
 ッチ上杉/ふちがみとふなと/吉田一平/酒井隆史東琢磨/本山謙二/橘
 安純/カオリーニョ藤原/他
 ■日 時:06年9月24日(開場15:30 /開演16:00)
  第1部:ライブ(16:00〜19:30)
  第2部:クロストークなど(20:00〜22:00)
 ■前売り \2500 当日 \3000(1drink\500別)
 ■場 所:大阪:心斎橋SUNHALL(TEL.06-6213-2954)
  http://www.sunhall.com/top.html

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 ★第65回「哲学的腹ぺこ塾」★
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
 ■日  時:06年09月10日(日)午後2時より4時まで。
 ■テキスト:フロイトモーセ一神教』(ちくま学芸文庫
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房(会員制)



■黒猫房主の周辺「知的な態度/科学的な態度」■

★誰も読んでいないのかもしれない、この編集後記は寄稿者の入稿を校正し終わってから書いているので、毎度焦りながら書いている(苦笑)。そんなわけで……、村田氏と鈴木氏の原稿を読み終わって「知的な態度」あるいは「科学的な態度」の有り様を思った。


★もともと不勉強で知的生産(?)にも怠惰な黒猫房主であるけれども、それでもソコソコ本などを読んでいると、つくづく自らの「無知」に気づくことが多い。だからと言って「学者」のように勉強する「能力/才能」も「環境」も乏しい我が身であるならば、大言壮語しない(時々しているかもしれないと自省しながら)で、謙虚にその方面の先達の啓蒙書や研究書に啓発されて「単なる無知/知っているつもりの無知」に気づくよう心がけているつもりだが、この「つもり」がつもり積もれば多少は「知的な態度」を習得できるのではないかしら、と思っているのだった。


★しかし誤解をしないでほしいのだが、「知的態度」とは「知識の量=知っている積もり」によるのではなく、また謙虚な学者がよく言うように「知れば知るほど知らないことが多い」という意味でもなくて(特段その方面の専門家でなければ深く知らなくてよいことは、フツーの生活者にとっては当然のことだ)、他者に対する想像力あるいは畏敬の態度だと思っている。ときに「専門家」と言われる人が他者に対する想像力や畏敬を欠いていることは、よくよくあることではあるだろう。


★村田豪氏は、《実は、安易に「韓国文学」について何か書こうか、など考えたこと自体が、あまりに浅はかだったからだ。どうしてかというと、「韓国文学」などというものが自明にあるわけでないことは、たった一人の作家、たとえばパク・テウォンを見るだけでも気づかざるをえないだろう。/つまり、日本による植民地支配のため、民族的主体を奪われたかたちで近代化・西洋化を経験しなければならず、解放後は、東西対立の最前線として過酷にも国民国家の分断を引き受けなければならなかった民族が、総体としての自分たちの「韓国(朝鮮)文学」を見通すのは、容易ではなかったし、今なおそうであろう》とエッセイで書いているが、これこそが「知的態度」だと思う。


★さてもうひとつの「科学的な態度」とは、反証可能命題を立てて実証的に検証することであるのだが(しかしその命題の立て方もパラダイムに影響されていることにも自覚的でなければならない)、「トンデモ科学的言説」というのは科学的根拠がないことをそれらしく言い立てるだけのことではなく、例えば部分的に反証された事例を自分の論証にご都合主義的に普遍化して科学的だと論証する「疑似科学的態度」のことでもある。それは鈴木薫氏の論考でも批判されている、ジェンダーフリー・バッシングを展開する「学者」と言われる人々のことでもある。(参照:『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』双風舎
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?

★この「疑似科学的態度」は(前号の「編集後記」でも触れたことだが)、「PならばQ」が正しければ「QでないならばPでない」が正しい(対偶の関係)とするのが論理的なのだが、その逆や裏を(「QならばP」「PでないならばQでない」)を正しいとしてしまう論法のことである。言い換えると、ある命題が反証されたからと言って、その逆が証明されたと考えるのは論理的にも実証的にも間違っており、およそ「科学的態度」とは言えない。(黒猫房主)