「カルチャー・レヴュー」64号

本文は、http://kujronekob.exblog.jp/ にてお読みいただけます。

■目 次■
◆私はその存在を肯定したい――立岩真也著『私的所有論』『弱くある自由』を読む----------加藤正太郎
◆INFORMATION:映画『蟻の兵隊』(監督:池谷薫)/第2回 研究集会<死の法>――脳死臓器移植と尊厳死法の検証/第65回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺「<ある>ことは、よい!」---------黒猫房主

★暑中お見舞い申し上げます。
★今号掲載予定の中原紀生氏と山口秀也氏の連載は、著者の都合により休載といたします。深くお詫び申し上げます。

★黒猫カレンダー・プロジェクト発動!★
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ca01.html
「黒猫」のみを掲載したカレンダーって、なかなか売っていませんよね!
それで、いっそみんなで作っちゃおうという参加型のプロジェクトです。
「黒猫」のみを掲載した、2007年度版カレンダー製作に向けて、全国の黒猫好きの方々からの投稿写真を募ります。

★本誌はメルマガ版ですが、他にバックナンバーとしてWeb版があります。
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.html
★それぞれの論考ごとにコメントや感想が書き込めますので、よろしくお願いします。
★本誌への投稿も募集しております。
  E-mailル:「YIJ00302」を「@nifty.com」の前に付けてください。
★65号は、06.09.01の刊行予定です。


●●●●INFORMATION●●●


★映画『蟻の兵隊』(監督:池谷薫
 世界で初めて“日本軍山西省残留問題”に正面から斬り込んだ長編ドキュメ ンタリー。「蟻の兵隊」の公式サイト→http://www.arinoheitai.com/index.html
 
 ■期間:06年08月05日(土)〜08月25日(金)
 ■場所:大阪市・第七芸術劇場(TEL.06-6302-2073)
     http://www.nanagei.com/
 ■期間:06年08月05日(土)〜08月18日(金)
 ■場所:名古屋市・シネマスコーレ(TEL.052-452-6036)
     http://www.cinemaskhole.co.jp/cinema/html/home.htm

 なお「カルチャー・レヴュー」読者・古井戸さんの感想を、次のブログにて お読みいただけます。http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-24

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 ★第2回 研究集会 <死の法> ――脳死臓器移植と尊厳死法の検証――

 ■日時:平成18年9月18日(月曜祝日)
 ■場所:大阪国際会議場 グランキューブ大阪 10階会議室1008
     定員200名 http://www.gco.co.jp/japanese.html
 ■資料代:1000円
 ■タイムスケジュール
  12:30 開会挨拶
  12:45−13:15 検証報告1
 ◎光石忠敬さん(弁護士)
  「「脳死臓器移植法改定に関する報告」(題未定)
  質疑並びに会場からの意見など15分間
  13:35−14:05 検証報告2
 ◎立岩真也さん(立命館大学大学院教授)
  「此壱年半及今後」(仮題)
  質疑並びに会場からの意見など15分間
  14:20−14:40 20分間休憩
  14:40 指定発言(複数名から、題未定)
      会場から 意見交換など
  17:50 閉会
 ■主催:安楽死尊厳死法制化を阻止する会+良い死!研究会
 ■連絡先
  ◎安楽死尊厳死法制化を阻止する会事務局
  TEL:03-5568-7603、FAX:03-5568-7607
  mailto:infoアットマークchangejapan.org
  http://soshisuru.fc2web.com/
  ◎良い死!研究会 http://www.arsvi.com/0a/y01.htm
  会員募集中(立岩まで)mailto:TAE01303アットマークnifty.ne.jp

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 ★第65回「哲学的腹ぺこ塾」
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
 ■日  時:06年09月10日(日)午後2時より4時まで。
 ■テキスト:フロイトモーセ一神教』(ちくま学芸文庫
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房(会員制)
モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)


■黒猫房主の周辺「<ある>ことは、よい!」

★久方ぶりに加藤正太郎さんの書評を再読しながら、いくつかの感想をもった。例えば「感情は論理を備えている」という立岩真也さんの引用文を、感情は論理を含んでいる/感情は論理を基礎づけている、という具合に読み換えてみるとどうなるだろうか。
★論理によってこれ以上根拠を証明されない「公理」に対する私たちの態度において、この「公理」を基礎づけているのは、それを真としている私たちの感情ではないだろうか。
★ところで論理的に根拠があるように信じられている(それはほんとうは論理的には正しくないのだが導かれてしまう)「判断」が世の中には、たくさん罷り通っている。加藤さんの説明によると、こうなる。以下引用。
★<「PならばQ」が正しければ、「QでないならばPでない」が正しい(対偶の関係)。けれども時として私たちは、その逆や裏を(「QならばP」「PでないならばQでない」)を正しいとしてしまう。このことは例えば「能力のある者に生きる価値がある」と考える人が、「能力のない者には生きる価値がない」としてしまうことと何か関係があるのではないだろうか。この間違いを次のように指摘することはできるだろう。能力のある人の集合をPとし、生きる価値のある人の集合をQとするなら、PはQより小さいだけである(単なる部分集合)のだと。あるいはこの間違いは、人の存在をすら因果の列の中に捉える私たちの「感覚」が、「能力」を原因(始まり)とし、「生きる価値」を結果(終わり)とすることによってもたらされているのだろうか。>
因果律的な発想は原因や根拠を遡及的に求めようとするが、ある人が「このようにある」ことの理由や根拠を、その現在の「社会的価値観」のレンジにおいていくつかの属性でその人のことを説明できたとしても、それで終わりではない。すでにしてその人が<ある>ことを最終根拠に、それ以上は遡及できない正当性があるのではないのか? これは「公理」と同じではないだろうか? そうだとすればその「公理」から導かれる態度は、人から一切の属性を除いた存在として<ただある>ことの肯定であるほかない。これはすでに<ある>のだから、そのように<ある>ことを「よし」とする感情であるだろう。
★だが私たちは時として、<ただある>ことだけを肯定する態度に堪えられないので「存在の意味や有用性」を問うことで、間違えてしまう。確かに、意味がないよりあったほうが満足できるかもしれないし、その存在が有用であることやそのように努力することはよい場合もあるが、有用性や努力の評価は社会構築的であるのだから、つねによいとは限らない。肝心なことは有用でないことや努力できないことが、その存在を否定する理由にはならないということである。そのことを、しっかりと確認しておこう。
★昨今高まりを見せている「尊厳死」の法制化運動は、延命治療の苦痛や無意味、さらに医療資源の枯渇化を脅迫的に喧伝しているように思われるが、この運動が「尊厳なる死=美しい死」の自己決定を唱道することの効果として、<ただある>ことの存在否定に荷担していることも確認しておかなければならない。(黒猫房主)