吉田喜重の総ざらえ①

京都造形芸術大学吉田喜重作品を一挙上映中だということを、さきほど偶然見つけた。→http://www.geocities.jp/positionwest3/04_jyouei/vol20/
25日と26日には吉田喜重の講演もあるというので行きたいとは思うが、京都造形大は遠いなあ。
僕はそれほど多く吉田作品を観ているわけではないが、『戒厳令』(1973)は印象的な作品で別役実のシナリオ『戒厳令 伝説・北一輝」(角川書店)も持っている。確か池袋の文芸座地下で観たように記憶しているのだが……。
北一輝役の三國連太郎はカリスマ性とその内側に隠された<弱さ>が漂っていて秀逸、かつ迫力があった。

その北が養子の息子・大輝に諭す台詞。

いいか、大輝、お前の父親は革命家だった。私も革命家だったし……、今もそうだ…。人は全て、偉大な人間は全て、革命家なのだ。革命と言うのは、もっと高貴なものだし、もっと厳粛なものだ。そして、いいか、大輝、革命家と言うのは、革命を行うもののことではなくて、むしろ、革命に耐えられる人間の事なのだ。来てごらん。(立上る)

(ト書き) 突然二人は、街を見下す或る小高い所に立っている。眼下に、白ちゃけた真昼の街が広がり、人々が無秩序に動きまわっている。一輝は、王者の様に立ちはだかり、背後に大輝を従えている。

見なさい、大輝。これが我々の世界だ。多勢の人々が居て、それぞれがそれぞれの正しいと信ずるところに従って行動している。しかし、いいかね、
よく見てごらん。ちっとも正しくはない。みんな一人一人ひどくとりとめがないし、そのとりとめのなさに不安を感じて、更に一層忙しく動きまわっている。誰でも、自分が間違っている事に、いくらかは気づいているのだが、どう間違っているのかは、知らないのだ。見ていてごらん。やがて正午になる。そして、戒厳令が布告される。


(ト書き) 遠く正午のサイレンが鳴り、空のあたりで何かひらめくものがあった様な感じである。

戒厳令が布かれた……。もちろん誰も気づいては、いない。人々は相変らず間違えている。しかし、気がついたかね、人々は、厳粛に間違えている。戒厳令のもとでは、どんな小さなつまらない行いも、間違いですらも、厳粛さのうちにとりこまれる。戒厳令が場所を得て、全ての無秩序の中から、秩序を見出しつつあるからだ。戒厳令は、人々に秩序を与えるのではない。ただ人々の、無秩序の中にある秩序を見出すのだ。やがて、人々も気づくだろう。自分達の内にある秩序について。そして恐らく、立止って空を見上げる。そこに布告されている戒厳令を、自分達の内なる秩序が創り上げたのだと言う事を確かめるために……。確かめ終った時、もしかしたら人々はそこに陛下を見るかもしれない。陛下がそこにおられてもいいと言う事に気づくからだ。そしてもしかしたら、人々はその事に感動する事も、出来るだろう……。その時もう人々は、全てを許すことが出来るからだ……。(あとはつぶやくように)……いかね、我々の革命はそんな風にして成就する……。
戒厳令 伝説・北一輝」(p39〜p42、角川書店)より

<いま・ここ>の革命あるいはその<決意性>、その中心に「天皇」というゼロ記号=虚無(別役実北一輝理解では、「天皇」はそれ自体<総合>であると捉えている。<総合>は反転すれば、ゼロ=虚無でもありえる)を据える、北一輝アナーキズムかもしれない。
吉田喜重の『戒厳令』と同じ年に、コスタ・ガヴラス監督、イヴ・モンタン主演の『戒厳令も』製作されていたのだったが、吉田作品ははるかに濃密な思想劇で全編緊張を強いられるが、その強度が心地よかった記憶がある。

戒厳令 [DVD]

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