「希望の国家論」というトークセッション①

3月11日のトークセッション「立岩振一郎×稲葉振一郎」のことを書かなくてはと思いながら、多忙に逐われてなんとなく時が過ぎてゆく。
それで、葉っぱ64さんの素早いリポート(http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20060312)をお読みください(コメント欄の僕のコメントも)。
当日会場で売られていた、最新刊『マルクスの使いみち』(稲葉 振一郎・松尾匡・吉原直/太田出版)を読んでいる最中だが、この座談本のスタンスは稲葉さんの「はじめに」によく表出しています。

本書では新古典派経済学の道具立ての正当性をあくまで主張しますが、それはどういう正当性かといえば、「かつてマルクス主義の問題意識をきちんとした形で定式化するためにそれが必要なんだ」という意味での正当性なんです、それを理解していない人々、つまりマルクス主義の資本主義批判に何らかの意義、正しさのあることを直観しながら、他方において知的体系としてのマルクス主義の正統性喪失に途方にくれている人々=人文系ヘタレ中流インテリのみなさんに対して、「正統派、新古典派の経済学は敵じゃない」と語りかけるところにあります。(……)こうした人文系インテリに対して「なぜいまあえて、新古典派の土俵にとどまり、数理分析をコアに据えたマルクス主義なのか」を納得のいく形で説明するという課題は、たんにマルクス主義の問題を超えて、専門的経済学者と非専門家、非経済学者との関係の建てなおしにおいて重要なポイントとなるはずです。そこをわかりやすく説明できないと、マルクス主義どころかアカデミックな経済学総体が、「公衆」から孤立してしまうのではないか。(p18〜p20)

トークセッション後の呑み会にも参加した僕は、立岩さんや稲葉さんに幾つかの質問をしましたが、そのことは他日に記します。立岩さんの印象は予想どおりでしたが、二次会・三次会と深夜まで付き合っていただいた稲葉さんは、氏のブログでの文体に反して(?)穏やかで真摯な語り方でした。
マルクスの使いみち