ジェンダー・フリーについて

10/24のエントリーに対して、鈴木薫さんが丁寧なコメントをカキコしてくれたので、本文にて転載する。

#鈴木薫さん(鈴木さんのブログ→http://kaorusz.exblog.jp/
黒猫さん、素早い対応ありがとうございます。「研究者」や「学問」を特権化しているように思えなくもない文言? 確かにそうかも。権威に弱い役人相手なので、最初意図的にそうしたとは原案作成者の弁です。しかも第一稿は、専門家集団が抗議するという形でした。
そういうやり方も確かにありだが、しかしここはまとまって迅速な行動をということで、衆知を集めてできたのがこの文章です。
このプロジェクト、私も入っているML上で、上野さんを少しでも支援しようという呼びかけから生まれました。はっきり言って、種々の意見を取り入れて全体の流れが見えにくくなっています。(なにしろ、単純なたった一つの考えでこり固まった人たちではありませんからね。)部分的には同意できない文言を残して署名した人も、署名を見送った人もあるだろうし、第一私自身、上野氏の書いたものについては、自分のブログで揶揄や批判をしたことがあり、近いうちまたそうする予定もあります。
しかし、ことは上野さん個人に対する圧力の問題ではありません。すでに「ジェンダー」という語は好ましくないといったたぐいの見解も流されていることを、ご承知の方も多いでしょう。
名前は重要です。セクシュアル・ハラスメントという言葉ができるまで、それは女性たちが不快や苦痛を感じながら問題化することのできなかった「名前のない問題」でした。抗議文のうち、「3 ジェンダー概念に対する無理解」のところを黒猫さんは引用してくれましたが、私の関心ももっぱらこの項にあります。女性運動にとって、ジェンダーという言葉は、武器であり、盾です。セックスと信じられていたものが実はジェンダーだと言うことで、女たちは自然な身分と思われていたポジションから身を引き離すことができたのですから。
朝日新聞の用語解説における問題点は、フェミニズムを中傷する人々が意図的に流した定義をそのまま引き写してしまっているところです。これには本当に、知的水準を疑います。新聞記者がジェンダーのあとにカッコ書きして(文化的社会的性差)などとするのは、教養ある彼らが一般読者の理解力を見くびってのことかと思っていましたが、こんなふうに平気で書いてしまうところを見ると、彼ら自身がそういうレベルなのかもしれない。何ですか、「男女の同一化の動き」って。同一化って普通、アイデンティフィケーションのことでしょう。
抗議文には、表現の自由・学問の自由の侵害や女性運動の歴史を無視することへの怒りも盛られていて、それは抗議の手法であると同時に、実際に文章をまとめる労を取った人の手の痕跡でもあります。この原案を利用して言いたいことを盛り込んで行くにあたり、私は、[ジェンダー・フリーは]〈「女らしさ」や「男らしさ」という個人の性格や人格にまで介入するものではない。〉という文のあとに、次のように入れることを提案しました。
【むしろ、ある個人(女であれ男であれ)が男らしかろうと女らしかろうとそれを理由に不利益をこうむってはならないと考えるものである。】
ジェンダー・フリーは男らしさや女らしさまで否定するものだと非難する人々は、女が男らしかったり男が女らしかったりしたら、それこそ否定してかかるわけです。そこで、こっちはむしろそれを認めるものなんだということを入れたかった。
「性格」とか「人格」とかいう実体的な言葉、私だったらこう無邪気には使えませんし、ある個人と「男らしさ」「女らしさ」の結びつきを、私自身はもっとゆるいものとしてとらえています。とはいえ、もう一つ釘を刺しておく必要があると思われました。
ジェンダー・フリー、あるいはジェンダーという言葉そのものに難癖をつける人々は、今日、ジェンダーとして認識されているものを、再び、生物学的に定められた自然な特性に戻そうとしています――再び、女性として分類された個人を「区別」することは、女の特性を尊重することでこそあれ、女であることを理由に差別することではないと言うのです。
あのねえ、まさにそれこそが差別なんでだけどね!
(むろん、この「区別」は、トイレだの風呂だの更衣室だのの区別の話ではありません。バッシング派はなぜかそういう話が大好きなんです。)
「男らしさ」「女らしさ」を、そうそう牧歌的に考えるわけにもいかないのです。そこで、「まして、喧伝されているように、「男らしさ」や「女らしさ」を「否定」するものではけっしてない。」という文のあとに、
【しかしながら、これまで性差別が伝統的な「女らしさ」「男らしさ」の名のもとに行われてきたことも事実である。ジェンダーとは、まさしく、そうした自然らしさのかげに隠れた権力関係のメカニズムを明らかにし、これを変えてゆくために有効な概念なのである。】
と入れてみました。
これらの文案、どちらも一度は取り入れてもらったのですが、最終稿にあとを残しているのは二番目の方だけです。何しろこのあと、さまざまな意見が飛び交いまして……長くなった結果、最初の方は削除されてしまいました。
これ、石原は読まないだろうし、読んでも読めないんだから読まないと同じだろうし、上野氏を拒否した直接の担当者は、ジェンダー・フリーは石原の意に添わないということしか頭になかったと想像されますので、別にこれを読んで納得するということもないでしょう。しかし、〈あなた〉には、読んで考えていただきたい。すでに署名は締め切られましたが、抗議文のサイトでは今後も賛同者を募ると思われます。ぜひ訪ねてみてください。http://www.cablenet.ne.jp/~mming/against_GFB.html


鈴木さん。コメントありがとうございました。
下記の部分は、朝日新聞でなく毎日新聞の間違いではないですか?

朝日新聞の用語解説における問題点は、フェミニズムを中傷する人々が意図的に流した定義をそのまま引き写してしまっているところです。これには本当に、知的水準を疑います。新聞記者がジェンダーのあとにカッコ書きして(文化的社会的性差)などとするのは、教養ある彼らが一般読者の理解力を見くびってのことかと思っていましたが、こんなふうに平気で書いてしまうところを見ると、彼ら自身がそういうレベルなのかもしれない。何ですか、「男女の同一化の動き」って。同一化って普通、アイデンティフィケーションのことでしょう。

ちなみに、毎日新聞だとすれば「新聞記者がジェンダーのあとにカッコ書きして(文化的社会的性差)」というような記述はありませんので、念のため!
またこのテーマに関して、葉っぱ64さんのブログでも議論されている。→http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20060125
ひびのまことさんのブログにも興味深いコメントに賛意を表明するので、下記に部分引用する(引用元をお読みください)。

私(ひびの)は、上野さんとは意見が異なり、「ジェンダー・フリー」を単に「男女平等」に置き換えることには反対です。なぜなら、この置き換えをしてしまうと、「ジェンダー」の概念や「ジェンダー・フリー」の運動が持っていた問題提起の射程を狭めてしまうからです。
 少なくともバッシングが激しくなる前は、「ジェンダー・フリー」の運動の現場ではLGBTIの問題が積極的に取り上げられてきたと思います。また「男でも女でもない人」の存在と権利を積極的に肯定する雰囲気があったと思います。また実際、私は、そういった雰囲気と運動の中で、LGBTIAQへの差別を問題化する発言の場をもらって/獲得してきたという事実もあります。
 そして、「ジェンダー・フリー」を「男女平等」とまとめてしまうことは、仮にその意図はなくても、「LGBTIAQへの差別を問題化する視点」を切り捨ててしまうものに思えるからです。http://weblog.barairo.net/index.php?id=1138034023