ジェンダー・フリーって?〜東京都へ抗議

1/11のエントリーに対する、鈴木薫さんのコメント欄で紹介されている毎日新聞記事を下記に引用する。

ジェンダー・フリー問題:都「女性学の権威」、上野千鶴子さんの講演を拒否
 ◇用語など使うかも… 「見解合わない」理由に拒否−−国分寺市委託

 東京都国分寺市が、都の委託で計画していた人権学習の講座で、上野千鶴子・東大大学院教授(社会学)を講師に招こうとしたところ、都教育庁が「ジェンダー・フリーに対する都の見解に合わない」と委託を拒否していたことが分かった。都は一昨年8月、「ジェンダー・フリー」の用語や概念を使わない方針を打ち出したが、上野教授は「私はむしろジェンダー・フリーの用語を使うことは避けている。都の委託拒否は見識不足だ」と批判している。(……)

 一方、女性学とは社会や学問のあり方を女性の視点でとらえ直す研究分野だ。上野教授は「学問的な見地から、私は『ジェンダー・フリー』という言葉の使用は避けている。また『女性学の権威だから』という理由だとすれば、女性学を『偏った学問』と判定したことになり許せない」と憤る。

 同市や開催準備に加わってきた市民らは「講演のテーマはジェンダー・フリーではなく、人権問題だった。人権を学ぶ機会なのに都の意に沿う内容しか認められないのはおかしい」と反発している。【五味香織】

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 ■言葉

 ◇ジェンダー・フリー

 社会的・文化的な性差「ジェンダー」をなくす意味で用いられる和製英語。90年代半ば以降、「男らしさ、女らしさ」を押しつけないジェンダー・フリーの考えが広まり、自治体などが男女共同参画に取り組む際に使われてきた。特に決まった定義がないため、体育の着替えを男女同室で行うなど、行き過ぎた男女の同一化の動きにもつながっている。猪口邦子男女共同参画担当相は、混乱や誤解が生じているとの判断で今年度中に定義を明確にする方針。

毎日新聞 2006年1月10日 東京夕刊
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/women/news/20060110dde041040009000c.html

ここで問題にしたいのは、「ジェンダー・フリー」という和製英語が、この間どのように理解・曲解されてきたかだろう。
はてな」のリンク解説によれば

男女の違いについての、社会的歴史的に形成されて、伝統的・慣習的に当然・自然とみなされるようになった区別、「あるべき姿」、役割分担などが、盲目的に押し付けられ、強制されることで生じる不利益、不公平、偏見などをなくそうという日本の運動・思想。

とある。このほうが、毎日新聞の「言葉」解説よりも適切だろう。
そして<「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源(1)& (2)>と題する、山口智シカゴ大学東アジア研究センター研究員(文化人論考類学・女性学)の論考が、この間の実情をよく紹介しているように思われる。→http://home.uchicago.edu/%7Etomomiy/articlesj/gfree1.htm
毎日新聞の解説では「ジェンダー・フリー」は和製英語とあるが、上記の山口智美の調査によれば、この言葉はバーバラ・ヒューストンというニューハンプシャー大学の教育学教授の論文「公教育はジェンダー・フリーであるべきか?」(1985)に由来しているようだが、その彼女は「ジェンダー・フリー」よりも、「ジェンダー・センシティブ」のほうを実践的に重視しているそうだ。
ちなみに、いぜんにもブログで紹介した「ジェンダー」について、以下に転載する。

江原由美子によれば、genderとは
1)社会的文化的に形成された男女の性格や能力等の特性・性差(「男らしさ」「女らしさ」をさす語。生物学的性差をさすセックス(sex)と対比的に用いられる。
2)フェミニズム的批評等の言語理論において、言語表現に示された性別に焦点を当てて批評するという考察をさす語。
3)社会的文化的歴史的に規定された性別や性差についての「知」をさす語。「知」を使用し産出する社会的実践が産出する社会秩序である「性別秩序」をさす場合もある。(『岩波哲学思想辞典』より)
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20051130/p1

下記に鈴木薫さんから送られてきた、東京都への抗議署名のメールを転載する。

各 位

すでにご存じの方もいらっしゃると思います、重複お許し下さい。
上野千鶴子氏が国分寺市の人権学習の講師となることを、ジェンダーフリーという語を使うかもしれないという理由で東京都教育庁が拒否した事件については、すでに一部マスコミでも報道されているところです。
この件で、東京都に抗議する署名運動がはじまりましたのでご案内します。
http://www.cablenet.ne.jp/~mming/against_GFB.html から署名できます。

上記サイトでは抗議文とともに、ことの顛末と、上野氏が東京都と国分寺市へ送った公開質問状等の資料が読めます。

抗議文の趣旨に賛同いただける方なら、どなたでも署名できます。事務局以外に対して氏名を公表しないことも可能です。
署名の第一次〆切は26日正午と間がありませんので、お早めに。
27日には代表者が都庁へ行って抗議文を渡すとともに、記者会見を開く予定です。

この件、関心のありそうなお知り合いへぜひご紹介下さい。
とりいそぎ。

鈴木 薫

その東京都への抗議文の一部を下記に引用する。
まったくもって同感である。早速、僕も署名した。「研究者」や「学問」を特権化しているように思えなくもない文言に抵抗感がある方は、その趣旨の方向性で理解すればよいと思う。

3 ジェンダーへの無理解について

 ジェンダーは、もっとも簡潔に「性別に関わる差別と権力関係」と定義することができる。したがって「ジェンダー・フリー」という観念は、「性別に関わる差別と権力関係」による、「社会的、身体的、精神的束縛から自由になること」という意味に理解される。
 したがって、それは「女らしさ」や「男らしさ」という個人の性格や人格にまで介入するものではない。まして、喧伝されているように、「男らしさ」や「女らしさ」を「否定」し、人間を「中性化」するものでは断じてない。人格は個人の権利であり、人間にとっての自由そのものである。そしてまさにそのゆえに、「女らしさ」や「男らしさ」は、外から押付けられてはならないものである。
 しかしながら、これまで慣習的な性差別が「男らしさ」「女らしさ」の名のもとに行われてきたことも事実である。ジェンダー理論は、まさしく、そうした自然らしさのかげに隠れた権力関係のメカニズムを明らかにし、外から押し付けられた規範から、すべての人を解放することをめざすものである。
 「すべての人間が、差別されず、平等に、自分らしく生きること」に異議を唱える者はいないだろう。ジェンダー理論はそれを実現することを目指す。その目的を共有できるのであれば、目的を達成するためにはどうすべきかについて、社会のみなが、行政をもふくめて自由に論議し、理解を深めあうべきである。
 それにもかかわらず、東京都は、議論を深めあうどころか、一面的に「ジェンダー・フリー」という「ことば」を諸悪の根源として悪魔化し、ジェンダー・フリー教育への無理解と誤解をもとに、まさに学問としてのジェンダー理論の研究および研究者を弾圧したのである。このことが学問と思想の自由に与える脅威は甚大である。
http://www.cablenet.ne.jp/~mming/against_GFB.html