「普遍的責任論」の強度

う〜む。なんとか「哲学的腹ぺこ塾」の報告を終えた。
僕のレジュメ以外に参考資料として配布した、鶴見俊輔「戦争責任の問題」(『鶴見俊輔集9 方法としてのアナキズム』 p168〜p172、筑摩書房)、竹内好「戦争責任について」(『日本とアジア』p230〜237、ちくま文庫)、高橋哲哉の発言(『グローバリゼーションと戦争責任』岩波ブックレット)が、スキャナーのおかげで準備できたのは僕の拙い報告をカバーしてくれたと思う。
斎藤純一の論点である「集合的責任としての政治的責任」や「普遍的責任」は、もともと「戦後責任」をもつべきだと思っている人々にとってはその論理的・倫理的基礎を与えてくれるだろう。
しかし、かつて高市早苗が語ったような戦後責任論への拒否(註)は、いまなおくすぶり続けているようにも思われる。
斎藤はアーレントの集合的責任の二つの条件として
A:代理責任としての集合責任(自分が行っていないことに対する責任)
B:自発的行動によって解消しえないある集団(集合体)に成員として帰属していること
を挙げている。

Aに関しては、例えば「会社」を事例として僕なりに考えてみると、会社がおこした事故(公害)の責任として実行当事者の刑法的責任(罪)と経営者の管理責任が問われるが、そのことによってそれ以外にも直接には関係していない他の従業員も賠償金(賠償責任)の一端を売上(給料)から担うことになる。この事例に対してならば、高市早苗も文句は言わないだろう。しかし一企業が賠償金を賄えない事態の場合に、国家からの公費(税金)が負担されるとしたら、果たして高市は納得するだろうか? この点は斎藤の言う「普遍的責任」に関わってくる。

Bに関しては、集合体が「会社」ならば従業員が自発的行動によって辞めることはそれほど難しいことではないから、「集合責任」から逃れることも容易である。だが、問題はその先にある。従業員が会社を辞めても、(戦争被害者が存在しているのと同じように)事故(公害)による被害者は存在している。
この被害者が存在しているという「不正義状態」に関して、元の従業員は責任を感じるべきなのか? この点も斎藤の言う「普遍的責任」に関わってくる。

「自発的行動によって解消しえないある集団」の条件次第によっては、政治家・高市早苗もその政治的責任を引き受けることに疑義を唱えないだろう(それともある種の「個人主義」を貫徹するか?)。その意味では高市早苗を説得できるだろう/かも知れない。だがそれでも自分は、やはり「関係ない/関係したくない」という孤立的と言えば言える感情を持っている人々は居残っているのではないか?
とくにそれが自分の利害と関わる場合には、自己の利益を優先して考えるのが常であり自分は「倫理的に低い人間」であっても構わないという態度の人はいるだろう。それでも相応の配慮という利己的判断に基づけば、いちおう「仕方ない」ということで「代理責任」を引き受けることを説得できるだろう/かもしれない。
だがこういう態度の人に対して、斎藤の言う「普遍的責任論」は果たして届くのだろうか? 斎藤の言う「アテンションの位置=配置」の不在が、「われわれの関知するところではない」という「暗闇」の領域(不正義状態)をつくるのであり、だから私たちのアテンションをある閉域のなかに境さないという意味で「普遍的」に責任を問うのは、まさに正しい。
しかしまさにその「正しさ」の故に、日常の利害に右往左往している「倫理的に低いわれわれ」は、「理性を私的に使用する」ことには鋭敏だが「理性を公的に使用する」(カント)ことからは遙かに遠いのだ。
「自分は馬鹿だから反省しない」と言った高名な評論家は、もちろんアイロニカルな批評/態度だが、この「倫理的に低いわれわれ」がプチ右翼の言説を支えているとしても、そこには一定の批評性はある。この批評性/態度を打ち破るためにには、理念を共有する仲間内にしか通用しない言説ではない、強度の意志と語り方が構築される必要があるように思う。
そして、「私的立場=利己性」において個人として「理性を公的に使用する」ことのその「遠さ=困難さ」においてこそ、逆説的に「公共性」の潜在性/可能性を呼び込むためのチャンスがあるのかも知れないのだ。
★註:敗戦後50年の節目に衆議院において「五十年後決議」がなされた際、当時、新進党衆議院議員であった高市早苗は「五十年後決議」に反対して、「私は戦争当事者とはいえない世代だから反省なんかしない。反省を求められるいわれもない」と明言した。
★「倫理的に低いわれわれ」というのは誤解を招く表現であるが、「われわれ」内部(同族とか)では倫理観の高い人でも、外部や「知らないこと/知りたくないこと」に対しては無関心な態度を指している。
★「自分は馬鹿だから反省しない」と言った高名な評論家は、戦時中に旗振りしていた知識人が戦後簡単に「転向」したことへの批判でもある。その意味でアイロニカルな批評性を持っている。だからと言って、それをベタに受け取るのは間違いであろう。