Web評論誌『コーラ』27号のご案内

今年もあと半月ですね。夏を過ぎてからの時間が早く感じられる今日この頃です。
予定通り、2015年12月15日に発行いたしました。
ぜひ、ご高覧ください。

■■■Web評論誌『コーラ』27号のご案内(転載歓迎)■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/index.html
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 ●新連載<前近代を再発掘する>第3回●
  回帰する『太平記』あるいは歴史と暴力
  岡田有生・広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-3.html

  なぜ『太平記』か(広坂朋信)
  『太平記』を読んでみようと思い立ったのは、なにも岩波文庫版の刊行が始
 まったからというだけではない。これまで花田清輝が『近代の超克』などで提
 唱した「前近代的なものを否定的媒介にして、近代的なものをこえようとす 
 る」アイデアをめぐって議論してきた。日本の前近代は古代から幕末までの長
 い歴史があるが、生活や文化の面で現代とある程度までの連続性のある時代は
 室町時代からだとされている。例えば山崎正和は、生け花、茶の湯連歌、水
 墨画、能、狂言、床の間、座敷、醤油、砂糖、饅頭、納豆、豆腐を列挙して、
 室町時代が「少なくとも日本文化の伝統の半ば近くを創造した」としている 
 (山崎正和『室町記』講談社文庫)。「伝統の半ば近く」というところが肝要
 であって、もしこれが「伝統のすべて」であれば、それは現代にあまりにも近
 すぎて「否定的媒介」とはならない。江戸時代、それも化政期以降の都市文化
 を取り上げると、現代にも通じるところがたやすく見つかるためにパースペク
 ティブを見誤ることになりかねないのはそのためだ。逆に、平安時代の王朝文
 化はあまりに浮世離れしているように見える。その点、室町時代は現代に通じ
 るものがありながら違うところは違うので「否定的媒介」として取り上げるに
 はなかなか適任だろう。(以下、Webに続く)
 
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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第36章 像と喩の彼岸─和歌のメカニスム5
  第37章 続・像と喩の彼岸─和歌のメカニスム5
  中原紀生
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-36.html
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-37.html

  ■言語芸術論の構図をめぐる試行的考察(Ver.2)
   前章の末尾に、吉本隆明の芸術言語原論(言語の理論)を、X・Y・Zの
 三本の座標軸に関係づけて概観したラフ・スケッチを掲げました。それは製作
 者自身、得心がいっているわけではない難点だらけの、荒削りな試作品でしか
 ないものでした。その後、像と喩にもとづく表現の理論と三基軸との関係につ
 いてあれこれ考えをめぐらせ、そこに、吉本表現論における第三の要素(であ
 り、かつ、韻律・撰択・転換・喩につづく第五の表現段階)であるところの 
 「パラ・イメージ」の概念をどう位置づけたものかと思い悩み、そのあげく、
 (あいかわらず、意味や価値といった言語の属性をうまく拾いあげることがで
 きていませんが)、第二の試作品をこしらえてみたので、その概略(という 
 か、骨格と若干の素材)を以下に記しておきます。(以下、Webに続く)

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 ●連載「新・玩物草紙」●
  長田 弘の詩は/御伽草紙
  寺田 操
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-17.html

  五月十日、夜のNHKニュースで長田 弘の訃報。本棚から『記憶のつくり
 方』(朝日文庫/2012・3・30)を取り出して開いてみた。「鳥」「最
 初の友人」が印象に残っている。自分の思想や哲学を特定の領域だけで伝達・
 自足するのではなく、広範囲の読者へレベルを下げずに発信できる詩人であっ
 た。「肩車」冒頭から。
 《肩車が好きだった。父によくせがんだ。背をむけて、/父が屈みこむ。わた
 しは父の頭に手をしっかりのせて、/両脚を肩に掛ける。気をつけなければな
 らないのは立ち/あがるとき。わずかに父の両肩のバランスが崩れる。そ/の
 バランスの崩れをうまくしのがねばならない。立ちあ/がってしまえば、あと
 は大丈夫だ。わたしはもう誰より/も高いところにいる。わたしは巨人だ。 
 ちっちゃな巨人/だ。わたしの見ているものはほかの誰にも見えないもの/ 
 だ。父さえ見ることのできないものだ。》 (以下、Webに続く)

Web評論誌『コーラ』26号のご案内

予定通り、8月15日の「敗戦記念日」に刊行いたしました。
ご高覧いただけますと、幸いです。

ところで、安倍シンゾーの「70年談話」は周到に主語を曖昧にして、安倍の「本心」を隠しながら、周りがうるさいからとりあえずは「侵略」「植民地」「お詫び」「反省」のキーワードを盛り込んで、哀悼の意も表しましたから、文句ないでしょう? と言わんばかりのある意味傲慢な内容でしたね。

それでも安倍の本心が出ていた箇所は、先の戦争と無関係な子どもたちに「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」というフレーズに表れていました。しかし、問われるべきは集合責任としての政治責任なのですから、戦後の日本が政治責任を否認しないできっちり果たすことのほうが先決であり、むしろ宿命を背負わせているのは阿倍シンゾーらの歴史修正主義者ににあると言わねばならないでしょう。

 70年談話の全文は以下のサイトで読めます(外務省のHP)。
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html

PS:今朝の朝日新聞の「社説:戦後70年の安倍談話 何のために出したのか」は痛烈なな安倍談話批判でした。この間迷走していた同紙にしては、毅然としていましたね。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11916594.html

■■■Web評論誌『コーラ』26号のご案内(転載歓迎)■■■

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 ●特別寄稿●
  旅行記のようなもの──サハリン
  加藤正太郎
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/kikou-26.html
 
 極右勢力の議席独占
  昨年(2011年)12月に行われた衆議院総選挙の直前に私は、朝日新聞大阪府
 版に掲載されていた、ある奇妙なアンケート結果を見たのである。それは、大
 阪府選挙区の全候補者に対して行われたもので、もちろん他に「原発廃止」や
 「消費税増税」や「TPP参加」に対する賛否を問う項目もあったのではある
 が、私の目に飛び込んできたのは、ロシア、中国、韓国、北朝鮮に対する「親
 しみ」を問う項目なのであった。そしてそこには、「ある」「どちらともいえ
 ない」「ない」という回答が用意されており、候補者ごとにその結果が○△×
 という記号で示されていたのである。実をいえば私は、「親しみ」という言葉
 に拒絶反応を示してしまい、熟読することもせず、また切り抜きもしなかった
 ので、その詳細についての記憶は極めて曖昧なままなのである。つまり、もし
 かしたら対象に北朝鮮はなかったかもしれず(「親しみがない」のは当然のこ
 ととされているから)、代わりに「米国」があったかもしれないといったあり
 さまなのであるが、しかしこのことは、私が思わず目を背けてしまった理由に
 は何ら影響しないと思うのである。私は次のように思ったのであった。

 (1)国会議員候補に「他国への親しみ」の度合いなど聞いて何の意味がある
 のだろうか。私たちが知りたいはずのものは、世界平和についての理念や思想
 であり、「親しみ」の「ある・なし」などによって外交方針が左右されること
 があったとしたら、それはむしろ危険なことではないだろうか。
 (以下、Webに続く)

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 ●新連載<前近代を再発掘する>第2回●
  犠牲と平和――河原宏『日本人の「戦争」』から
  岡田有生・広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-2.html

  古典の誤用(広坂朋信)
  河原宏『日本人の「戦争」』(講談社学術文庫)の初めの章「日本人の「戦
  争」」は、日本の古典と明治以降の日本人の歴史意識との関係、特にアジア
 太平洋戦争の時代に焦点を当てて、あの戦争の「古典依存的性格」を指摘して
 いる。もっとも、その冒頭で、ラフカディオ・ハーン小泉八雲)の観察に依
 拠して日本人一般の意識を規定している点には賛同できないが、古典の誤用を
 指摘している箇所は興味深い。
  例えば、「海行かば」は荘重、悲壮な曲として知られるが、大伴家持による
 その原歌は「黄金の産出を喜ぶ祝祭歌の一部だった」。ところがこの古歌を近
 代日本が利用したところ「大いなる歓びを歌った原歌が予想もしなかった葬送
 曲、それも日本自体の葬送曲を奏でてしまった」という指摘は面白い。   
 (以下、Webに続く)
 
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 ●連載〈心霊現象の解釈学〉第8回
  「不気味なもの」の向こう側へ
  広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-8.html

不気味なもの
  このわがまま勝手な連載で、私は何度かフロイトの有名なエッセイ『不気味
 なもの』に言及しようとしながら、そのたびにためらってきた。それは私がこ
 の知の巨人の理論に通じていないからということももちろんだが、怪異につい
 ての心理学的・精神医学的アプローチに懐疑的だからでもある。
  フロイト自身の言葉によれば、『不気味なもの』の「本質的な内容」は次の
 とおりである。 (以下、Webに続く)
 
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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第34章 続・自己表出と指示表出の織物─和歌のメカニス4
  第35章 続々・自己表出と指示表出の織物─和歌のメカニス4
  中原紀生
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-34.html
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-35.html

  ■生起と喩のメカニズム、再説
  中沢新一氏によって、吉本隆明の「自己表出」と「指示表出」に重ねあわせ
 て論じられた「生起」と「喩のメカニズム」について、いま少し、こだわりた
 いと思います。
  まず、生起について。
  中沢氏自身が書いていたように、この語は、ハイデガーの「エアアイグニス
 [Ereignis]」に由来します。一般には「事件、出来事」と訳され、英語では
 「イベント[event]」、フランス語では、(たとえば、丸山圭三郎が『言葉
 と無意識』で、「人間は、言葉をもったために生じたカオスへの恐怖と、それ
 をまた言葉によって意味化する快楽に生きる。この恐ろしさとめくるめく喜び
 こそ、ルドルフ・オットーのいう〈ヌミノーゼ的体験〉であり、形を絶えず突
 き崩す動きと、動きを絶えず形とする力の舞台であり、そこで起きる〈出来 
 事〉[エヴェヌマン]とは、同時に形であり動きであると言ってよい。」と書
 いていた、その)「エヴェヌマン[e've'nement]」にあたる語です。
 (以下、Webに続く)

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 ●連載「新・玩物草紙」●
  家は……/消滅可能都市?
  寺田 操
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-16.html

  家は……
  子供のころ住んでいた天窓のある家を夢にみることがある。裏庭から物干し
 台への階段を上り、瓦屋根に這いつくばって天窓から真下をのぞくと、台所で
 は割烹着をつけた母が料理していた。傍らでつまみ食いをしていた弟が天窓を
 見上げ、ここまでおいでと、勝ち誇った顔をして私を悔しがらせた。いま居住
 する高層マンションでは体験できない不思議が幼い日の家には満ちていた。
 《東京の街を車で通りながら、ときおり、はっと息をとめさせるものがある。
 家だ。ふしぎな家を見るのだ。》 (以下、Webに続く)

Web評論誌『コーラ』25号のご案内


予定通り、2015年4月15日に発行いたしました。
ご高覧いただけますと、幸いです。
さて、安倍晋三政権はますます憲法9条の拡大解釈(解釈改憲)に邁進、過日の報道では国会の事前承認も得ずに「自衛隊」の海外派遣を行おうと日米で画策している模様です。
今秋あたりには、いよいよ憲法「改正」の一手を打ってくるでしょう。
それに対応して当局によるマスコミ等への「報道規制」の圧力も増加していくでしょうが(すでにかなりの圧力がかけられ、すでに右傾化しているとも言えますが)、彼らは果たしてどこまで持ち堪えられるのでしょうか?
本誌は、今号より「戦後レジームからの脱却」などというイカサマの「近代の超克」を批判する連載を開始します。

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 ●新連載<前近代を再発掘する>第1回●
  花田清輝の「近代の超克」について

  岡田有生・広坂朋信

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/zenkindai-1.html
  私たち(岡田有生と広坂朋信)は、「近代の超克」と呼ばれるテーマを再検
 討してみたいと思い立った。再検討というのは、昭和戦中期になされた「近代
 の超克」座談会とその周辺の思想については、先人たちがそれぞれの視点から
 詳細に検討した優れた成果がすでにあるからだ。
 たとえば、竹内好『近代の超克』(筑摩書房)、廣松渉『〈近代の超克〉 
 論』(朝日出版社講談社学術文庫)、子安宣邦『「近代の超克」とは何か』
 (青土社)があり、最近ではハリー・ハルトゥーニアンの大著『近代による超
 克』(岩波書店)も訳された。私たちには、これら大家たちによる思想史研究
 に新しい論点を付け加えようという野心はない。  
  私たちの関心は「近代の超克」と呼ばれるテーマが私たちに問いかけてくる
 ものにどうこたえるかということに尽きる。具体的には、前近代の文化や反近
 代の思想のなかに、解釈的に再構成されたものとしてではあれ、ある種の近代
 批判の契機を掘り起こすことで、「近代の超克」と僭称される悪しき日本型近
 代主義の運動に対抗していくことは可能か? この課題は「戦後レジームから
 の脱却」などというイカサマの「近代の超克」がのさばっている今、取り組む
 にあたいするものだと信じる。(以下、Webに続く)
 
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 ●書評●
  従軍慰安婦問題の本質を名指すこと
  『慰安婦」問題の本質――公娼制度と日本人「慰安婦」の不可視化』
   (白澤社)
  
  野原 燐

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/syohyou-25.html
  慰安婦問題の原点は、1991年8月の韓国での金学順さんのカミングアウ
 トにある。藤目ゆきのような各国のフェミニストだけでなく、当の元「従軍慰
 安婦」当事者にもその衝撃は伝わった。フィリピンではある女性(ロラ・ロサ
 さん)がカミングアウトした。藤目は「感激してロラ・ロサに会いに行き、そ
 の後三年をかけて自伝の執筆を手伝い、一九九五年に『ある日本軍「慰安婦
 の回想――フィリピンの現代史を生きて』(岩波書店)を出版した。」(p4)
 私が藤目の名前を知ったのは図書館でこの本を借りて読んだからだ。もうずい
 ぶん前のことだ。従軍慰安婦問題というと、韓国人元慰安婦がクローズアップ
 されることが多いが、フィリピンやインドネシアなどの状況は、韓国人の場合
 ともかなり違い、システム化された慰安婦制度からはみ出る分、より露骨な人
 権侵害が多いことを、知ることができる。(以下、Webに続く)

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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第33章 自己表出と指示表出の織物─和歌のメカニス4

  中原紀生

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-33.html
  ■土をこねて一生を使いはたす生き方
  はじめに、前章の最後で、和歌の表現における「自然の事物事象の多出」 
 をめぐって書いたことに、若干の補足をします。
  ……自然曼荼羅における事物事象群は、自然記号としての「コトバ」であ
 り、かつ、いま・ここに現象する思ひとしての「ココロ」であり、それらは
 同時に、クオリア的実在としての「モノ」そのものである。つまり、自然曼
 荼羅こそ、和歌をなりたたせる「物・心・詞」の三つの要素を束ねる窮極の
 アソシエイションである。
  そうしたアソシエイションの優位のもとで遂行される「やまとうたの思想」
 にあって、「よろづ」と「ひとのこころ」と「ことのは」は、自然曼荼羅のう
 ちに水平的交換と垂直的映現の関係をきりむすぶ。和歌を詠むとは、そのよう
 な、「モノ=ココロ=コトバ」となって自然曼荼羅を現出させる高次の位相に
 おける事物事象を詠むこと、あるいは自然の事物事象が自らを詠みいだすこと
 にほかならない。……(以下、Webに続く)

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 ●連載「新・玩物草紙」●
  消える仕掛け/凍った言葉

  寺田 操

http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-15.html
  ボルヘス『砂の本』(集英社文庫/1995・11)は何度も読みたくなる
 短篇集。表題の「砂の本」は絶品だ。神聖な本をお目にかけられると男から声
 をかけられた。開いた1度目はページ数がでたらめに並び、ペン書きの稚拙な
 錨の絵が挿入されていた。2度目に開いたときは、どこをめくっても錨の絵が
 でてこない。3度目は、表紙と親指のあいだに何枚ものページがはさまり、湧
 きだす感じで、最初のページも最後のページもみつけられない。男は「この本
 のページは、まさしく無限です。どのページも最初でなく、また、最後でもな
 い」と言った。高額で入手した主人公は、家にこもり本のとりこになるが、や
 がて本が怪物と気がつく。火も考えたが、退職する前に勤務していた国立図書
 館の棚のひとつにかくした。 (以下、Webに続く)

Web評論誌『コーラ』24号のご案内

予定通り、2014年12月15日に発行いたしました。
今回の国政選挙は戦後最低だそうですが、自民党の圧勝でいよいよ憲法「改正」の動きが高まってきますね。これまでの「民意」の過半数は「改正」に反対/慎重でしたが、それは国会での議論に反映されるのでしょうか。あるいは、国会議員は街頭の声(デモ等)を傾聴するのでしょうか。

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 ●書評●
  「未発の政治」は、いつ発現するのか
   ――『沖縄闘争の時代1960/70』を読んで考えたこと
  
  田中佑弥
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/syohyou-24.html
  便宜上、「書評」という形にしておくけれど、専門的見地から評価するとい
 うことではない。大野光明『沖縄闘争の時代1960/70――分断を乗り越える思
 と実践』(人文書院、2014年)を読んで、大阪に暮らす一住民として考え 
 たことを記しておきたい。
  関西における米軍基地問題への取り組みを特集した『PACE』8号(著者が中
 心になって編集されている)によって著者が、「大阪沖縄連帯の会」の研究、
 京都で米軍基地問題について考える「スワロウカフェ」という活動を行ってい
 ることを知り大変興味を持っていたところ、『沖縄闘争の時代1960/70』(以
 下では「本書」と表記し、引用は頁数のみを示す)が出版され早速読んでみ 
 た。(以下、Webに続く)

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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第31章 言語・意識・認識(認識フィールド篇、破の部)
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-31.html
  第32章 言語・意識・認識(認識フィールド篇、急の部)        
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-32.html
  中原紀生

 ■二つのこころ─古今序を原起点とするやまとうたの思想
  前章の末尾で、古今集仮名序および真名序をとりあげた際、「こころ⇒こと
 のは」と「心地⇒詞林」の重層構造に関連して、「こころ」の二相化、という
 表現をもちいました。これは、もちろん私の創作ではなく、井筒豊子のオリジ
 ナルな議論にもとづくものです。
  仮名序において、ひとの「こころ」(意味単位群もしくは意識フィールド)
 を「たね」(根源・根基)として「ことのは」(言語単位群もしくは言語  
 フィールド)となったものがやまとうたであり、そして「こころ」と「ことの
 は」の相関者として現象するのが森羅万象(としての「よろづ」、すなわち存
 在単位群もしくは認識フィールド)であるとされ、また真名序において、和歌
 とはその根を「心地」(空すなわち非現象)に託け、その華を「詞林」(仮す
 なわち現象)に発くものであるとされたこと。この、古今序の二つのテクスト
 に登場する二つの「こころ」、真名序由来の「心地」と仮名序由来の「ここ 
 ろ」の関係をめぐって、井筒豊子は、それらは、すなわち「心地[こころ]的
 全一主体」と「言語分節的意識主体」とは、「同一の心的主体性の、先行・後
 行的二位相[フェイズ]」として現象的に展開するものであり、同時にまた、
 「二種の独立固有の主体的事態」でもある、と規定しています。
 (以下、Webに続く)

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  ●連載〈心霊現象の解釈学〉第7回●
   妖怪学の衝突

  広坂朋信  
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-7.html
  これまで、このわがまま勝手な断続的連載でカント、ヘーゲル、エンゲル 
 ス、ベルクソンの心霊現象論を見てきたが、私自身が共感するのはカントとベ
 ルクソンである。
  ヘーゲルの場合は自らの哲学体系と一致しないから骨相学を否定し、逆にメ
 スマーの動物磁気説については自らの哲学体系に親和的であるから肯定したと
 いう印象がある。いずれにしてもヘーゲルは伝聞によってしか情報を得ていな
 いし、しかもその理論しか見ていない。
  エンゲルスの骨相磁気学批判、交霊術批判は実証精神にあふれている点で好
 感が持てるが、やはり否定のための検証という印象がある。とはいえ、心霊学
 的には、具体例を検討しないで動物磁気説に引っかかったヘーゲルより、実例
 を自ら検討したエンゲルスの方がはるかにましであるし、骨相磁気学が一種の
 催眠術、交霊術に至ってはトリックであり、むしろ問題はこれにひっかかる科
 学者の側だという指摘はまことにごもっともである。(以下、Webに続く)

ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜

明日の上映です。
このチャンスでないと観られないかも? ですね!

ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜 上映会
南京事件を描いた日本未公開の話題作が遂に公開
18:00 会場:神戸学生青年センター 入場料:1000円 
主催:神戸・南京をむすぶ会
http://www17.plala.or.jp/kyodo/1209.pdf

因みに、
『南京!南京!』(中国映画 監督:陸川/ルー・チューアン 2009年公開)を
youtubeで鑑賞できます。これも日本では未公開です(映画で使用している音楽の著作権の問題らしい)。
  ↓
https://www.youtube.com/watch?v=VWjHyCKaRUg
日本語字幕で全編鑑賞できます。通俗的な「反日映画」ではなく、魂を揺さぶる傑作だと思います。

Web評論誌『コーラ』23号を、予定通り8月15日に刊行いたしました。

いちおうお盆が過ぎましたので、残暑お見舞い申し上げます。

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  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
   第30章 言語・意識・認識(認識フィールド篇、序の部)

  中原紀生
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-30.html
  井筒豊子は、和歌論三部作の第二論文「意識フィールドとしての和歌」の 
 末尾に、「蛇足」として、次の一文を書き加えています。
 (以下、Webに続く)

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  ●連載〈心霊現象の解釈学〉第6回●
   心霊科学のトンネル

  広坂朋信  
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-6.html
  科学に対する迷信

  化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。宇宙は怪異に満ち
  ている。あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻物である。それをひもといてそ
  の怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである。
  (寺田寅彦「化け物の進化」『寺田寅彦随筆集第二巻』岩波文庫

  ちょうど去年の今ごろ(7月中旬)、テレビ番組の制作会社の人から電話が
 かかってきて取材を申し込まれた。逗子の通称「お化けトンネル」について話
 を聞きたいとのことだった。 (以下、Webに続く)

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  ●連載「新・玩物草紙」●
   書店事情/眠る女たち

  寺田 操
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-13.html
  古書ミステリー倶楽部』(ミステリー文学資料館編・光文社文庫/2013
 ・10)を開くと江戸川乱歩の口絵がとびこんできた。経営していた三人書房
 (「貼雑年譜」より)のスケッチだ。このアンソロジーは、城昌幸「怪奇製造 
 人」、甲賀三郎「焦げた聖書」などの戦前の古書ミステリーから、松本清張 
 「二冊の同じ本」、戸板康二「はんにん」、石沢英太郎「献本」、梶山季之
 出久根達郎早見裕司、都築道夫、野呂邦揚、紀田順一郎仁木悦子などなん
 とも豪華なラインナップ。いっきに読んでしまいたいので持ち歩き、阪急電車
 のなかで読み終えて下車したのは神戸・三宮駅西口。繁華街の細い路地、東門
 筋を抜けて山手幹線へでる。にしむら珈琲を山へ向かって坂道をあがる。途中
 で雨が降りだしてきたが、坂道を濡れて歩くのはなんとも風情があって絵にな
 る。だれか私の後姿を入れてスケッチしてくれないかしらと妄想。
 ((以下、Webに続く)

Web評論誌『コーラ』22号のご案内

「桜舞ふ どこへ惑うか きょうのみち」→「桜舞ふ 惑いて冥く きょうのみち」
なんてね?
みなさまは花見をされましたでしょうか?
拙宅の近所には桜の名所で有名な川沿い公園がありますので、今年も花見客がたくさん訪れておりましたが、もはや葉桜。

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 ●現代思想を再考する[第2期]4(最終回)●
  歴史の教訓的使用について

  広坂朋信
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/gendaisisou-s4.html
 まえおき
  カントをもじって「歴史の教訓的使用」と題したからには、マルクスから 
 「一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として」の名文句を引い
 てその出典について蘊蓄をひとくさりしつつ、おもむろにハーバーマス「歴史
 の公的使用について」(『過ぎ去ろうとしない過去』)を引っぱり出して歴史
 修正主義について論じるといった「遊び」が必要だというのが、このリレー 
 エッセイで私が主張してきたことの一つである。
  白か黒か短兵急に決着をつけたがる議論は危い。せめて結論のない蘊蓄をひ
 とくさりするくらいの「遊び」がないと、考えることが苦痛になる。それは裏
 返せば、思想が恫喝の道具になりかねないということだ。さあ考えろ、結論は
 これだ、というわけだ。来年あたりから小中学校で実行されようとしている教
 科としての道徳教育とはそうした恐喝に、きっとなる。(以下、Webに続く)

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  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
   第28章 言語・意識・認識(意識フィールド篇)
   http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-28.html
   第29章 言語・意識・認識(意識フィールド篇、余録と補遺)
   http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-29.html
   中原紀生
 
  ■漢語系と和語系、二つの言語意識
  井筒豊子・和歌論三部作のうちの「意識フィールド」論文を、かれこれもう
 一年近く読みあぐねています。
  この間、矯めつ眇めつ繰りかえし眺めているのにいまだ見極めがつかず、 
 しっくり腑に落ち得心できたという実感がこみあげてきません。なにがどう論
 じられているかは読めば判るし、判ればとても刺激を受けるのに、読みかえす
 たびまた初めての読中読後感が立ちあがってきて、どうにも読み尽くせない。
 「言語フィールド」論文もけっして御しやすくはなかったものの、それでも論
 じられている事柄や主張それ自体はとてもシンプルで、かつ、議論の輪郭や筋
 道もくっきりと見通しがきくものだったのですが、「意識フィールド」論文 
 は、文章、構文、叙述の全般にわたって複雑、錯綜の程度が高まり、読みくだ
 し理解するのに難渋をきわめるのです。(これが「認識フィールド」論文とも
 なると、文章量の飛躍的な増量とともに論述の中身の複雑、錯綜、晦渋の質が
 より高次の域に達して、もはやその精緻きわまりない顕微鏡的な解像度につい
 ていけない。)((以下、Webに続く)

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  ●連載「新・玩物草紙」●
   捨児/富士

  寺田 操
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-12.html
  小川洋子「イービーのかなわぬ望み」(『夜明けの縁をさ迷う人々』角川文
 庫/2010・6)は、街で一番古い中華料理店のエレベーターのなかで産み
 落とされ、母に姿を消された男の捨児の物語だ。出産に遭遇したが縁で捨児を
 育てることになった洗い場のチュン婆さんは、赤ん坊を背中にくくりつけて皿
 洗いをし、流し台の陰でミルクを飲ませ、店の一角で捨児と一緒に寝起きし 
 た。イービーと名付けられた彼がヨチヨチ歩きするころになるとエレベーター
 が遊び場となり、一日中そこで過ごすようになった。エレベーターには可愛い
 男がいると評判になり、中華料理店にはなくてはならないマスコットになった
 彼だが、育ての親が死ぬとエレベーターに駆けこんでひきこもり、そこが住居
 であり仕事場であるといった完全なエレべーター・ボーイとなった。時は流 
 れ、中華料理屋の閉店、老朽化した建物の取り壊しがはじまった。エレベー 
 ターからウェイトレスに抱きかかえられて救出され、はじめて外界の空気に触
 れたイービーだが、しだいに輪郭を失くし、余生をすごしたいと願ったエレ 
 ベーターテスト塔が見えたとき、肉体は消えていた。((以下、Webに続く)