Web評論誌『コーラ』17号のご案内

■■■Web評論誌『コーラ』17号のご案内■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html

 
 ●現代思想を再考する4
 神話劇を見る視線
 
  広坂朋信(コメント:岡田有生)
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/gendaisisou-4.html
  岡田有生氏の前回の論考は、今村仁司の第三項排除効果論を取り上げて、深
 く鋭く問い直すものだったが、私は山口昌男スケープゴート論について浅薄
 かつ散漫におしゃべりしてみたい。一知半解の駄弁を読む暇のない方は、本稿
 に寄せられる岡田氏のコメントにだけ眼を通していただければ結構かと思う。
 以下、御用とお急ぎのない方だけお付き合いいただこう。
 
 今村仁司の二つの注
  さて、今村仁司はその著書『暴力のオントロギー』の最終章で「供犠(サク
 リファイス)の論理は、エディプス・コンプレックス、象徴的父親殺し、象徴
 的自殺、象徴的近親相姦ないしナルシシズム、さらにはヒトラーの政治神話的
 戦略にいたるまで、種々の形態をとりうる」としたうえで、それに次のような
 注を付していた。(以下、Webに続く)

  ---------------------------------------------------------------

  ●連載〈心霊現象の解釈学〉第4回●
   少女が死霊に取り憑かれるまで――妄想「累ヶ淵」

  広坂朋信  
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/sinrei-4.html
  夏場なのでどうあっても幽霊を出したいところである。この連載コラムは、
 カント、ヘーゲルエンゲルスと来たのだから次は順当にいったらベルクソン
 あたりなんだろうが、赤毛ものばかり続くのも少し飽きてきたところだ。それ
 に、夏の幽霊と言えば日本の風物詩であるから、今回はがらりと趣向を変えて
 日本の幽霊を出したい、いや、お出でいただきたい。ということで、ハイ出ま
 した、出ていただきました。どなたかというと、「累ヶ淵」の累さんである。
 ルイじゃありませんよ、かさね、と呼んでください。実在した人物ですから
 ね、失礼のないようにしたいものです。(以下、Webに続く)

  ---------------------------------------------------------------

  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
   第21章  水なき空のメタフィジィク・下句
        ──ラカン三体とパース十体(急ノ伍)
 
  中原紀生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-21.html
  ■修辞から境地へ─第二のメタフィジィク
  これより、定家十体をめぐる『初期歌謡論』の議論を駆け足で、いわば「ク
 イック・フォックストロット」のリズムでもって見ていきます。が、その前
 に、議論の前提となる事柄をひとつ、確認しておきます。
  前々章で引いた文章のなかで、吉本隆明氏は、壬生忠岑の和歌体十種と定家
 十体との「二世紀半ほどのあいだに、歌をつくることは、表現を媒介にしてあ
 る心の境地を、いいかえればメタフィジィクを獲得することだというところに
 踏みこんでいったのだ」と書いていました。(以下、Webに続く)

  ----------------------------------------------------------------

  ●連載「新・玩物草紙」●
   記憶遺産/破れた世界と、ヴェルテップ

  寺田 操
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-7.html
  2011年5月、ユネスコの「世界記録遺産」に登録された山本作兵衛の筑
 豊炭鉱画は、地下労働者の生活がリアルに描かれた貴重な生活記録であった。
 記録遺産とは、人々の営みを記録した歴史的な文章の保存を目的として
 1992年にはじまり、アンネの日記など76ケ国190件以上が登録されて
 いる。
  炭坑産業の記録は、政府の公文書や企業の記録として残っている。何しろ
 「石炭なくしては国家の発展はなく、文化の興隆はありません」などと言った
 国家エネルギー・プロジェクトだったのだから。けれども、実際に炭坑の現場
 で働いていた労働者のリアルな行為は、ここでは記述されてはいないだろう。
 わたくしは『まっくら―女坑夫からの聞き書き―』(森崎和江著・山本作兵衛
 画/1970・8/現代思潮社)で、炭坑産業とそこで働き暮らす人々の記録
 と文化を知った。それにもまして山本作兵衛が92歳で亡くなるまで描いた2
 千枚近い絵は、実際に現場にいた者にしか分からない死と隣り合わせの地下世
 界を、精緻なタッチで伝達してくれた。(以下、Webに続く)

Web評論「コーラ」16号

ブログは、すっかりご無沙汰です。

 ■■■Web評論誌『コーラ』16号のご案内■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html



 ●現代思想を再考する3
グラフスの微笑―― 宿命と偶然(記号と埋葬2)
 
  岡田有生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/gendaisisou-3.html
 前回の文章では、柄谷行人の論考「ライプニッツ症候群」を参照しながら、
80年代以降の日本におけるいわゆる「現代思想」の重要な特徴を、ライプニッ
ツ的な記号の論理の支配ということに見出そうとし、またその状況が同時代の世
界的な思想の文脈においては構造主義的な思考の覇権という現象の一部として位
置づけられるのではないか、と考えたのだった。
ライプニッツ的な記号の論理の支配」ということを詳しく言うと、歴史性を消
去された透明な項としての個物が、単一の全体の表出と考えられる諸記号(モナ
ド)の体系のなかで関係しあう予定調和的な空間として、社会や事象を捉えると
いうことである。
 そこでは記号は、たとえばデリダが語ったような「意味」の支配を惑乱する形
式的な力として働くことはなく、逆に全体を表出する項であるかのように機能す
ることで、その機能の場(市場、思考空間、公共空間)の同一性についての信憑
を、言い換えれば、「全体」なるものが確固として存在しているというイデオロ
ギーを、密かに支え強化するものとして働く。 (以下、Webに続く)

                                                                                                                            • -

  ●連載〈心霊現象の解釈学〉第3回●
   先端科学と超常現象

  広坂朋信  
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/sinrei-3.html
 もともとは心霊現象をめぐる思想史上のエピソードを面白おかしく紹介しよう
ということで始めたコラムなのだが、初回は東日本大震災にうろたえ、二回目は
旧友の死の衝撃から立ち直れずに、それらの言い訳から書きはじめることになっ
てしまった。しかし、さすがに三回目の今回は私の怠慢以外の言い訳の種も尽き
たので、いきなり本題に入る。
 前回、ヘーゲルが人相学や骨相学に鉄槌をくだす場面を紹介した。
 ヘーゲルは『精神現象学』で「人相学者の横っ面を張り倒せ、骨相学者の頭蓋
を叩き割れ」と、当時流行したトンデモ科学を威勢よく罵倒していた。そして、
ある意味で彼の後継者ともいえるエンゲルスが磁気骨相学のトリックを暴き、交
霊術に夢中になる自然科学者たちの無邪気さを冷笑するのも見た。エンゲルス
言葉を繰り返そう。 (以下、Webに続く)

                                                                                                                            • -

  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第20章  水なき空のメタフィジィク・上句
       ──ラカン三体とパース十体(急ノ肆)
 
  中原紀生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-20.html
 ちくま学芸文庫版『初期歌謡論』のあとがきで、著者は、この本を書くことで
いったい何をしたかったか、その二つののモチーフをみずから明かしています。
 ひとつは、「『記』『紀』の歌謡からはじまり『古今』の成立によって確かに
なった和歌形式の詩を、発生の起源から形式の成立まで、歌謡という統一的な概
念でたどってみたかった」というもので、この課題については、第?章「和歌の
発生」と第?章「歌謡の祖形」、そして第?章「和歌成立論」で論じられます。
「歌謡の発生の起源から和歌形式の成立までを、初期の歌謡として連続させなが
ら統一的に論ずるのが、わたしの願望だった。この方法は賀茂真淵折口信夫
徴候を見つけだすことができる。この本の方法は両家にたくさんの恩恵をうけ
て、系譜の見方をすればこの系統をひいている。」
 もうひとつのモチーフは、「わが国の詩の理論の書とみることができる初期の
歌論書を、もっと理論化してみたかった」というもの。具体的には、「平安期の
歌論書が説いている歌体の類別を解剖することと、歌枕とか枕詞のように景観と
地名とのあいだや事物と冠辞とのあいだの固定した言葉の慣習(いわゆる
「枕」)を解剖すること」の二点で、「かけねなしに難しい」これらの主題に、
著者は、第?章から第?章まで、「枕詞論・正続」および「歌体論・正続」の論述
を通じて、「できるかぎりの力能」をもって肉薄します。(以下、Webに続く)

                                                                                                                              • -

  ●連載「新・玩物草紙」●
  水の地図/紅 茶

  寺田 操
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-6.html
 小説や詩で登場する知らない地名があれば地図で探すのはとても楽しい作業
だ。近頃は主人公たちの生活範囲や足跡を辿れるような仕掛けも増えてきた。し
かし、それらが現実の災厄に関わってくるとなれば、地図を見る楽しみはいきな
り現実的な痛い扱いに変わる。
 春3月の東北大震災に続き、豪雨を道づれに秋台風がなんども列島を襲った。
各地の河川を氾濫させた豪雨は、濁流や土砂が人々や家屋を呑みこみ、地形を大
きく崩した。自宅周辺の地形が気になり、ハザード・マップを広げてみると、2
方を山に抱かれた山麓のマンションは、土石流災害の危険地区なので愕然とし
た。(以下、Webに続く)

Web評論誌『コーラ』15号のご案内

久方ぶりの更新です。
みなさん、お元気ですかあ〜。

 ■■■Web評論誌『コーラ』15号のご案内■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html

 ●現代思想を再考する2●
 ヘーゲルの「不在」が意味するもの――記号と埋葬1
 
 岡田有生(コメント:広坂朋信)
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/gendaisisou-2.html
前回のおさらいから始めたいのだが、掲載されたST氏の論文では、デリダの諸論文における「継承」のテーマの内容が整理され、そこでは「現在の同一性への閉塞」ということが「継承」を困難にするのだという認識が提示されていることが語られていた。
このアポリアは、まさに先程私たちが見た現在の同一性の閉塞で あり、隔たりを解消しようとする継承の考え方である。つまりこ のアポリアを私たちは継承の問題として読むことができる。すで に構成された点的瞬間の幅を持たない現在(そしてその継起とし ての時間)を想定すると、未来は未だ存在しない非−存在者とし て、あるいは絶えず点的現在に引き戻される(隔たりの解消)べきものとして考えられ、現在の閉塞に陥り、結局未来への継承が不可能になる、あるいは時間は存在しないものとなる。
また、この「現在の閉塞」は、デリダが取り組んだ西洋の形而上学の文脈においては、「意味」の支配と呼べるものに結びついていること、それは存在者のみならず「存在」という概念を「現前」として扱う態度(ハイデガーを指す)にも深く関わっているのだという、デリダの考えが示されたのである。
このように整理されるデリダの考えは、たとえば「記憶」という事柄については、次のように表現できるものとされる。(以下、Webに続く)

                                                                                                                            • -

 ●新連載〈心霊現象の解釈学〉第2回●
 単なる経験の範囲内における心霊現象

 広坂朋信  
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/sinrei-2.html
前回、カント『視霊者の夢』について面白おかしく書くつもりが、東日本大震災の衝撃にうろたえて中途半端なものに終わってしまった。
幸い挽回の機会を与えられたので、今度こそ面白おかしく書こうと構想を練り始めた矢先、まことに私的な事柄で恐縮だが、長い付き合いの大切な友人の訃報が届き、それに私はすっかり打ちのめされてしまって、それからしばらくは悲嘆にくれるばかりで何も手をつけられなかった。半年ほどたった頃、ようやく黒猫編集長との約束を思い出してキーボードを叩きはじめたのだが、どうしても喪の気分が抜けず、またもや面白くもおかしくもないメモを提出することをお許し願いたい。(以下、Webに続く)

                                                                                                                            • -

 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
 第19章 哥の現象学あるいは深読みの愉悦
 ──ラカン三体とパース十体(急ノ参)  
 
 中原紀生
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-19.html
前章で、佐々木中著『野戦と永遠』から、その一節を孫引きした中井久夫氏の「「創造と癒し序説」──創作の生理学に向けて」(『アリアドネからの糸』所収)に、「文体の獲得」なしに創作行為はなりたたないと書かれています。

《なぜなら、まず、文体の獲得なしに、作家は、それぞれの文化
の偉大な伝統に繋がりえない。「文体」において、伝統とオリジ
ナリティ、創造と熟練、明確な知的常識と意識の閾下の暗いざわ
めき、努力と快楽、独創と知的公衆の理解可能性とが初めて相会
うのである。これらの対概念は相反するものである。しかし、
その双方なくしては、たとえば伝統性と独創性、創造と熟練なく
しては、読者はそもそも作品を読まないであろう。そして、「文
体」とはこれらの「出会いの場」(ミーティング・プレイス)で
ある。》

中井氏はつづけて、二十世紀後半の文学の衰微は、「文体」概念を「テクスト」概念に置換したことにある(「それによって構造主義は既成テクスト…の精密な分析にすぐれる一方、第一級の文学を生産するのに失敗した。」)とし、また、無意識は言語のように、あるいは言語として組織されているというとき、ラカンが言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたことを惜しみ、さらに、文体獲得の後にはじめて、言語は作家のなかで四六時性をもつことになるのだと論じ、そうして、あらためて「文体」とは何かと問います。(以下、Webに続く)

                                                                                                                              • -

 ●連載「新・玩物草紙」●
 声/黒い靴

 寺田 操
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-5.html
人は誰もが現実社会で起こる出来事とは無縁に生きられない。津波地震原発と、春3月の未曾有の東日本大震災においても、誰もが圧倒的な現実の凄さに打ちのめされながら、声を、言の葉を求め、発語へと突き動かされた。圧倒的な力を発したのは、繰り返し繰りかえし流れた金子みすゞの童謡詩《こだまでしょうか、いいえ、誰でも》や、宮沢章二《心は誰にも見えないけれど/心遣いは見える》などのAC公共広告。また、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」、和合亮一ツイッターでの《放射能が降っています。静かな夜です》「詩の礫」。
なにげなく過ごしてきた日常がとつぜん断ち切られ、非日常へと呑まれていくことは、1995年の阪神淡路大震災で体験したのだが、津波の映像を見て怖くて泣いた、身体が震えた。三陸海岸の地図が、目に見えない放射能が夢のなかまで追いかけてきた。(以下、Webに続く)

Web評論誌『コーラ』14号のご案内>>

          • 以下<転載歓迎>ですので、ご紹介くださいませ。-------------

 ■■■Web評論誌『コーラ』14号のご案内■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html


 ●現代思想を再考する1 デリダと継承の困難●
 継承と隔たり――いかにしてデリダは/を継承するか
 
  ST(コメント:広坂朋信・岡田有生)
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/gendaisisou-1.html
  継承とは何であるか。一般に継承は、過去のものを現在において想起し証
 言し、未来へ受け継ぐ営みであると考えられる。そうした考えでは、一方に
 おいて、現在における同一性が想定されている、すなわち、想起し証言する
 時の現在は過去と未来とは区別され、厳密には瞬間として、いわば点として
 幅をもたない。他方において、過去と未来との区別が想定されている。過去
 が未来であることはない。
  哲学を、真理と知の根拠、それらの起源を問うものと考えるならば、哲学
 はいわば遡及的な営みとなるだろう。その営みが目指す根拠と起源が、――
 やや奇妙な言い方をするが――過去のもの(時間的に、あるいは論理的に、
 あるいは価値的に)であるなら、哲学とは想起であることになろう。また哲
 学が言語を媒介する限り、その想起は証言となる。したがって、過去の根拠
 と起源を想起し証言する哲学は、その限りで継承の実践であることになろ
 う。
  自身哲学者でありながら、過去の哲学者の読み手でもあったジャック・デ
 リダを、継承の問題から読むならば、デリダの哲学つまり脱構築とは、どの
 ような継承の実践となるだろうか。またその際、以上述べた継承の一般的な
 考え方は当てはまるだろうか。(以下、Webに続く)


  ---------------------------------------------------------------
 
  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第18章 ララングと水中花─ラカン三体とパース十体(急ノ弐) 
 
  中原紀生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-18.html
 
 「それはイメージであり、音であり、嗅覚であり、眺めである。さまざまな
 制度や教義の布置である。聖痕であり、傷であり、腫れであり、熱であり、
 ささくれであり、涙であり、病である。異言であり、呻きであり、祈りであ
 り、叫びであり、歌である。詩であり、本であり、註解である。」佐々木中
 著『夜戦と永遠』第一部「ジャック・ラカン、大他者の享楽の非神学」の第
 二五節「書く享楽──果敢なる破綻、ララング」にでてくる文章です。
  ここにいたる論述を通じて、佐々木氏は、ラカンがいう「女性の享楽=大
 他者の享楽」を、(「ミシェル・ド・セルトーおよび彼に私淑する神秘主義
 研究者鶴岡賀雄氏に依拠」しつつ)、十字架の聖ヨハネアヴィラの聖テレ
 ジア、等々の西欧一六、一七世紀の大神秘家たちの体験に、とりわけ神と恋
 する婚姻神秘主義の体験におきかえています。もとより、それらの体験(
 「現実界との遭遇」)は言葉では語れません。女性=大他者の享楽は象徴界
 の外、想像界現実界が重なる場所にあるものなのであって、そこは、「イ
 メージには辛うじてなるが言語にするのは不可能な場所」だからです。
  ところが、(鶴岡氏によると)、神秘家とは「書く者」のことであり、書
 かない神秘家など存在しません。「女性の享楽は、神と恋をし、神に抱か
 れ、それをめぐって書く享楽である。恋文を書く享楽、神の恋文に遭遇する
 享楽。神に抱かれ、神の文字が聖痕として自らの身体に書き込まれる享楽、
 そしてまたそれについて書く享楽。」「しかし、それはどんな言葉なのか。
 「見えるが見えない、語れるが語れない」「パラドックス」を孕む出来事だ
 が、対象aとは何の関係もない出来事を語る言葉とは。」冒頭に引いた、
 「それはイメージであり」以下の文章は、この問いのあとにつづくものでし
 た。(以下、Webに続く)

  --------------------------------------------------------------

  ●連載「新・玩物草紙」●
  椅 子/草 枕

  寺田 操
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-4.html
  江戸川乱歩人間椅子」(『江戸川乱歩傑作集』新潮文庫/1996・1
 0・44刷)は、タイトルこそ怖いが、読みはじめると、哀しい男の「孤
 族」ともいうべき物語だということに気づく。椅子職人が「丹精こめた美し
 い椅子を手放したくない、できることなら、その椅子と一緒に、どこまでも
 ついて行きたい」と願望を抱くのは、職人としての素朴な感情だろう。だ
 が、「やどかり」のように椅子に棲家を移そうと思いついたときから、奇怪
 な快楽が芽生えた。姿を消して、他者の身体のぬくもりを感応するスリリン
 グな感覚。恋する女性がその椅子に座れば、まさしく「椅子の中の恋!」と
 なるのだから。  (以下、Webに続く)

 -------------<転載は、ここまで>------------------------

 ----------------------------------------------------------------

◆ご恵贈本のご案内

 『尾崎翠野溝七生子
 (寺田 操著/白地社、定価2300円+税、2011年5月刊)
 
 ジャンルという枠を取り払うことで見えてくる都市モダニズムの交錯する
 新しい風とまぶしい感性。一九二〇・三〇年代の都市モダニズムの空気。

 第1章:尾崎翠のテキスト・クリティーク(尾崎翠金子みすゞの同時代性
 ;テキストで読むモダン都市;感覚世界をつなぐ点と線 ほか)
 第2章:女性詩人たちのモダニティー金子みすゞのモダニティー;林芙美
 子―蒼馬を飼う詩人;左川ちか―青のコラージュ・ロマン ほか)
 第3章:野溝七生子・美しき怨恨あるいは聖少女たち(阿字子のアジール
 ヌマと旅子の孤独;恋日記 ほか)

  --------------------------------------------------------------

 『生を肯定する倫理──障害学の視点から』
 (野崎泰伸著/白澤社発行:現代書館発売、定価2200円+税 2011年6月刊)

  <その通り、これが「本道」と思いつつ、「敵は」なんと言い返すだろう
 かとか、そんなことも気にしながら、例えば「救命ボート問題」は問題が間
 違っている等々の著者の気合いの入った論断を受け止めてみよう。>(立岩
 真也・推薦の言葉より)

 (目次)序:〈人間〉を問うことの可能性と危うさについて/第1章:障害
 学の視点/第2章:現代倫理学と分配的正義/第3章 生命倫理の陥穽──
 シンガー倫理学批判/第4章:倫理の別様のかたち/終章:生を肯定する倫
 理へ──境界線の正当化に抗う正義論
★下記のサイトに詳細な目次と書評が掲載されています。
  http://www.arsvi.com/b2010/1106ny.htm

集会&デモの案内

6月10日(金) ●米軍「トモダチ作戦」・自衛隊災害派遣の裏で何が?6・10前田哲男講演集会
午後6時30分 場所:エルおおさか 講演:前田哲男さん 特別報告:池島芙紀子さん(Stop ザ もんじゅ) 資料代1000円
主催:しないさせない戦争協力関西ネットワーク(シーサーネット)

6月11日(土) ●6.11脱原発 世界同日アクション 原発いらん!関西行動第2弾 関電は原子力からの撤退を
集会:中之島剣崎公園 2:00〜2:30 予定
デモ:御堂筋南下淀屋橋−本町−心斎橋−ナンバ 3:00〜4:30 予定
(雨天決行)(鳴り物、プラカード、横断幕等持ってきて下さい)
呼びかけ団体:ストップ・ザ・もんじゅ

4月27日に「STOP原子力★関電包囲行動」

一日中、やっているというのがユニークですね!
これは団体による「デモ」ではなく、個人主体による「抗議行動」としての呼びかけです。
したがって、権力側/ガードマン等による妨害もあるかもしれませんが、個人の判断によって対処してください。

4月27日に「STOP原子力★関電包囲行動」として関西電力に包囲行動を仕掛けていきます。
とりあえず人数の読みはまったくしてません。いつ来ていつ帰るもOKです。


■とき  4月27日(水)午前10時〜午後6時(※雨天決行)
■ところ 関西電力本店前(大阪市北区中之島3‐6‐16 地下鉄「肥後橋」駅300m)
■連絡先tatakau@kidae.info


服装、宣伝ツールも特に制限せず(トラメガでガーガーなどもOK)、
申し入れ行動、集まった人向けに署名集めるなど何してくれても良いので
とにかく集まれという感じで行きたいと思います。
実際に包囲になるかどうかは人が集まるかどうかですが、
包囲行動はここから始まります。


ビラはここです。→ http://kidae.info/kanden_houi/

ビラ表面本文----------


大量の放射能汚染水が湧き出ている福島第一原発の周辺状況を見れば、いくつかの炉の圧力容器や格納容器が無事では無い可能性が高いことを容易に読み取ることが出来ます。汚染水の出所は使用済み核燃料プールである可能性もありますが、こちらもメルトダウン再臨界も充分起こせる代物で、現在進行中の危機はメルトダウンから再臨界、大地を掘り進んで水蒸気爆発で土台がら吹き飛ぶという事態で、これを避けることが出来るのかどうかギリギリの所にあります。


一基でも水蒸気爆発が起これば、恐らく残り五つの原子炉周辺で作業することは不可能でしょう。そうなると次々とメルトダウンが起こり、チェルノブイリの10倍を超す放射性物質がまき散らされることになります。
このような話をすると水蒸気爆発が起これば手の打ちようが無いから想定することも無駄だと考える人もいると思います。しかし、巨大地震に対して「想定は無駄」と考えたのが東電を筆頭とする電力各社であり、1号機の炉心溶解(メルトダウン)の疑い濃い事故から数日という段階で現場から逃げだそうとしたが
それは許されず。今も放射性物質の粉塵が漂う地獄の中で働かざるを得ない状況にあります。
私たちがもう住めない程の汚染が関東・東北を超えて広がる事態があったとしても、数千万人の人々が難民となって暮らす場所などこの世界の何処にも無いのですから、いかなる最悪も想定して全ての準備、少しでも放射能の拡散を防ぐ手段を考えなければいけない時期にあります。
なのに東電任せの“対策”の中には石棺をつくる準備すら無いのはどういうことなのか?
連中はまたしても無責任に想定したくないことを想定せず、自らにとって想定外な事態を呼び込もうとしています。


この地震の多い国で巨大地震を想定外と言って恥じない連中に決定的な圧力を加えることは、私たちがこの世界で生き残る為に残された最後の可能性です。東京まで行って東電を包囲すれば直接的で解りやすい話ですが、万を超え数十万という人間が東京に入るには、東京で反原発の闘いをする人たちの受け入れ体制という問題があり、これは東京からの呼びかけを待つ必要があります。関西に住む私たちは、まず関電を包囲しましょう。
万を超す関電の包囲は東電に対して必ず大きな圧力となり、全国で反原発を闘う人々に大きな弾みとなります。


私は関電包囲の前哨戦として4月27日、関電一日包囲街宣を行います。
賛同いただけるならば時間内のいつでも良いので、この行動に是非参加頂きたいとおもいます。

Web評論誌『コーラ』13号のご案内

 ■■■Web評論誌『コーラ』13号のご案内■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html
 
  -----------------------------------------------------------
 
  ●新連載〈心霊現象の解釈学〉第1回●
  心霊現象への非哲学的考察
  広坂朋信  
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/sinrei-1.html
 (前略)カントが取り上げた「視霊者」、スウェーデンボリは、自然科学を
 学び、スウェーデン王国鉱山局の幹部として勤めるかたわら、自然科学につ
 いて、また、自然(宇宙)についての思弁哲学的論文などを発表していた
 が、神秘体験を経て神学研究に転向、カントが読んだ『天界の秘義』をはじ
 め、多くの神秘主義的著作を刊行した。それらの中で彼は、肉体から離脱し
 てもなお人格と(霊感によってのみ感知される)実体を持った霊と、そうし
 た霊たちが住まう霊界の実在を説き、霊界の有様や霊界と現実世界の関係に
 ついて述べている。(以下、Webに続く)

  -----------------------------------------------------------
  ●書評●
  走り書きの松下昇論
  ――高本茂『松下昇とキェルケゴール』(弓立社)を読み終えて 
  高橋秀明
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/syohyou-13.html
  高本茂が『松下昇とキェルケゴール』を弓立社から上梓した。昨年の夏過
 ぎ、二○一○年九月のことである。
  高本は必ずしも毎年ではないが、夏に避暑を兼ねて私の住む北海道の地を
 訪れる。訪れた折には、たいてい会って食事をしたり、私の方で札樽近辺を
 案内したりする。折々メールのやりとりもするし、電話で話をしたりもす
 る。ただ、松下昇のことについて近年真剣に議論をした記憶はない。私の方
 で避けていた向きがあったからかもしれないし、高本の方で私相手では話が
 うまく噛み合わないことを察知していたからかもしれない。
 (以下、Webに続く)

  -----------------------------------------------------------

  ●特別寄稿●
  砂男、眠り男――カリガリ博士の真実
  平野智子・鈴木薫
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/kikou-13.html
(前落)『カリガリ博士』について論じる過程で、私たちは必然的に、こ
 れまでなぜ、この有名なフィルムについて、まともな批評がなされてこなか
 ったのかを考察することになった。そして、その結果として、既存の批評の
 主に次の二つの立場に、異議を唱え、反対することになった(なお、この二
 つの立場からの批評は、『カリガリ博士』論に限らず、今なお広く行なわれ
 ているものであることを言いそえておこう)。一つは、芸術作品を論じる際
 に、「性的なもの」と「知的なもの」を結びつけることができない――前者
 を、矮小化、局所化するために――立場であり、もう一つは(一つめと関連
 するが)、あらかじめ作り上げた物語=歴史に、植民地化したジャンル(こ
 こでは映画)の作品を取り込んで利用する――作品を単純に時代を反映する
 ものと見なして、もっともらしい文化史を捏造する――立場である。
 (以下、Webに続く)

  -----------------------------------------------------------

  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第17章 夢の推論──ラカン三体とパース十体(急ノ壱)
  中原紀生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-17.html
 (前落)「常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へ
 のイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在している」。
 これを読んで私が連想したのは、かの貫之歌「影見れば波の底なるひさかた
 の空漕ぎわたるわれぞわびしき」でした。硝子のように冷たい青空をただ一
 つさびしく漂う「凧」と、波の底なる空(蒼穹の影を宿した水面)をわびし
 く漕ぎわたる「われ」との関係(たとえば、物質や生命の世界から隔絶され
 た純粋な言語空間(そこには、過去も現在も未来もない)を風に吹かれなが
 ら、もしくは頼りなく漂うものとしてこれらをとらえるなら、「凧」と「わ
 れ」は同じ事柄を指し示す異なる形象となるし、「凧」を物質・生命の世界
 の先端に結晶する精神の比喩とてしてとらえ、「われ」を純粋な言語空間に
 属する言語的な「われ」であるととらえるなら、両者はそのあり様をまった
 く異にする)、そしてまた、貫之の「千代経たる松にはあれど古の声の寒さ
 はかはらざりけり」の歌に詠まれた「いにしへの声」と、芭蕉の句にいう
 「水の音」をくわえた四つの詩句(詩想)の関係は、視覚と聴覚、かたちと
 リズム、実在と不在、空間と時間、等々がいりまじった複雑な様相を呈しま
 す。(以下、Webに続く)

  -----------------------------------------------------------

  ●連載「新・玩物草紙」●
  翻訳/人工光線の植物工場
  寺田 操
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-3.html
  2009〜10年発売の村上春樹1Q84』。「北京の書店から」(朝
 日新聞「GLOBE」2010・8・16)によれば、中国では5月下旬
 「BOOK1」、6月末「BOOK2」が刊行され、7月にはベストセラー
 の上位を占める人気。いまや世界中で村上春樹本の人気はうなぎのぼり。版
 権取得と翻訳者選びにも論議を巻き起こしている。中国は村上春樹本の翻訳
 =林少華が定番だったが、今回の翻訳は公募となり、シー・シャオウェイに
 決定。中国テイストが濃厚で美文調の林少華訳、一方、言葉が洗練されて読
 みやすくリズミカルなシー・シャオウェイ訳。両者による同一作品の翻訳は
 ないから比較はできないが、翻訳は時代の文体を伝える「使命」が課されて
 いるのかもしれない。(以下、Webに続く)

  -----------------------------------------------------------

  ●コラム「コーヒーブレイク」その6●
  2010年に観た映画──現代日本「ばかもの」の系譜
  橋本康介
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-6.html
  昔、『無用者の系譜』(64年、唐木順三)という本を読んだ。西行・在原
 業平・一遍・兼好・良寛・秋成・芭蕉などを論じて、「何故、日本の優れた
 思想や文学が、世捨て人=無用者によって作られ語り継がれて来たか?」を
 説いていた。それになぞらえて当つぶやきの標題を『現代日本「ばかもの」
 の系譜』としてしまふほどに、今「ばかもの」が愛おしい。

  -----------------------------------------------------------

  ●映画アンケート結果公表2010
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/filma10.html