Web評論誌『コーラ』14号のご案内>>

          • 以下<転載歓迎>ですので、ご紹介くださいませ。-------------

 ■■■Web評論誌『コーラ』14号のご案内■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html


 ●現代思想を再考する1 デリダと継承の困難●
 継承と隔たり――いかにしてデリダは/を継承するか
 
  ST(コメント:広坂朋信・岡田有生)
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/gendaisisou-1.html
  継承とは何であるか。一般に継承は、過去のものを現在において想起し証
 言し、未来へ受け継ぐ営みであると考えられる。そうした考えでは、一方に
 おいて、現在における同一性が想定されている、すなわち、想起し証言する
 時の現在は過去と未来とは区別され、厳密には瞬間として、いわば点として
 幅をもたない。他方において、過去と未来との区別が想定されている。過去
 が未来であることはない。
  哲学を、真理と知の根拠、それらの起源を問うものと考えるならば、哲学
 はいわば遡及的な営みとなるだろう。その営みが目指す根拠と起源が、――
 やや奇妙な言い方をするが――過去のもの(時間的に、あるいは論理的に、
 あるいは価値的に)であるなら、哲学とは想起であることになろう。また哲
 学が言語を媒介する限り、その想起は証言となる。したがって、過去の根拠
 と起源を想起し証言する哲学は、その限りで継承の実践であることになろ
 う。
  自身哲学者でありながら、過去の哲学者の読み手でもあったジャック・デ
 リダを、継承の問題から読むならば、デリダの哲学つまり脱構築とは、どの
 ような継承の実践となるだろうか。またその際、以上述べた継承の一般的な
 考え方は当てはまるだろうか。(以下、Webに続く)


  ---------------------------------------------------------------
 
  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第18章 ララングと水中花─ラカン三体とパース十体(急ノ弐) 
 
  中原紀生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-18.html
 
 「それはイメージであり、音であり、嗅覚であり、眺めである。さまざまな
 制度や教義の布置である。聖痕であり、傷であり、腫れであり、熱であり、
 ささくれであり、涙であり、病である。異言であり、呻きであり、祈りであ
 り、叫びであり、歌である。詩であり、本であり、註解である。」佐々木中
 著『夜戦と永遠』第一部「ジャック・ラカン、大他者の享楽の非神学」の第
 二五節「書く享楽──果敢なる破綻、ララング」にでてくる文章です。
  ここにいたる論述を通じて、佐々木氏は、ラカンがいう「女性の享楽=大
 他者の享楽」を、(「ミシェル・ド・セルトーおよび彼に私淑する神秘主義
 研究者鶴岡賀雄氏に依拠」しつつ)、十字架の聖ヨハネアヴィラの聖テレ
 ジア、等々の西欧一六、一七世紀の大神秘家たちの体験に、とりわけ神と恋
 する婚姻神秘主義の体験におきかえています。もとより、それらの体験(
 「現実界との遭遇」)は言葉では語れません。女性=大他者の享楽は象徴界
 の外、想像界現実界が重なる場所にあるものなのであって、そこは、「イ
 メージには辛うじてなるが言語にするのは不可能な場所」だからです。
  ところが、(鶴岡氏によると)、神秘家とは「書く者」のことであり、書
 かない神秘家など存在しません。「女性の享楽は、神と恋をし、神に抱か
 れ、それをめぐって書く享楽である。恋文を書く享楽、神の恋文に遭遇する
 享楽。神に抱かれ、神の文字が聖痕として自らの身体に書き込まれる享楽、
 そしてまたそれについて書く享楽。」「しかし、それはどんな言葉なのか。
 「見えるが見えない、語れるが語れない」「パラドックス」を孕む出来事だ
 が、対象aとは何の関係もない出来事を語る言葉とは。」冒頭に引いた、
 「それはイメージであり」以下の文章は、この問いのあとにつづくものでし
 た。(以下、Webに続く)

  --------------------------------------------------------------

  ●連載「新・玩物草紙」●
  椅 子/草 枕

  寺田 操
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-4.html
  江戸川乱歩人間椅子」(『江戸川乱歩傑作集』新潮文庫/1996・1
 0・44刷)は、タイトルこそ怖いが、読みはじめると、哀しい男の「孤
 族」ともいうべき物語だということに気づく。椅子職人が「丹精こめた美し
 い椅子を手放したくない、できることなら、その椅子と一緒に、どこまでも
 ついて行きたい」と願望を抱くのは、職人としての素朴な感情だろう。だ
 が、「やどかり」のように椅子に棲家を移そうと思いついたときから、奇怪
 な快楽が芽生えた。姿を消して、他者の身体のぬくもりを感応するスリリン
 グな感覚。恋する女性がその椅子に座れば、まさしく「椅子の中の恋!」と
 なるのだから。  (以下、Webに続く)

 -------------<転載は、ここまで>------------------------

 ----------------------------------------------------------------

◆ご恵贈本のご案内

 『尾崎翠野溝七生子
 (寺田 操著/白地社、定価2300円+税、2011年5月刊)
 
 ジャンルという枠を取り払うことで見えてくる都市モダニズムの交錯する
 新しい風とまぶしい感性。一九二〇・三〇年代の都市モダニズムの空気。

 第1章:尾崎翠のテキスト・クリティーク(尾崎翠金子みすゞの同時代性
 ;テキストで読むモダン都市;感覚世界をつなぐ点と線 ほか)
 第2章:女性詩人たちのモダニティー金子みすゞのモダニティー;林芙美
 子―蒼馬を飼う詩人;左川ちか―青のコラージュ・ロマン ほか)
 第3章:野溝七生子・美しき怨恨あるいは聖少女たち(阿字子のアジール
 ヌマと旅子の孤独;恋日記 ほか)

  --------------------------------------------------------------

 『生を肯定する倫理──障害学の視点から』
 (野崎泰伸著/白澤社発行:現代書館発売、定価2200円+税 2011年6月刊)

  <その通り、これが「本道」と思いつつ、「敵は」なんと言い返すだろう
 かとか、そんなことも気にしながら、例えば「救命ボート問題」は問題が間
 違っている等々の著者の気合いの入った論断を受け止めてみよう。>(立岩
 真也・推薦の言葉より)

 (目次)序:〈人間〉を問うことの可能性と危うさについて/第1章:障害
 学の視点/第2章:現代倫理学と分配的正義/第3章 生命倫理の陥穽──
 シンガー倫理学批判/第4章:倫理の別様のかたち/終章:生を肯定する倫
 理へ──境界線の正当化に抗う正義論
★下記のサイトに詳細な目次と書評が掲載されています。
  http://www.arsvi.com/b2010/1106ny.htm