Web評論誌『コーラ』9号と催事のご案内
予定発行日の12/15より1日遅れての発行となりました。
シリーズ〈倫理の現在形〉の寄稿をギリギリまで待っておりましたが、残念ながら今回は掲載できませんでした。次号に期待しましょう。
僕が、ほんのちょっとだけお手伝いした本『辺野古の海をまもる人たち――大阪の米軍基地反対行動』(田中佑弥編著、東方出版刊行)の出版記念会が、今週の19日(土)大阪で行われます。事前予約なしでも参加できるそうですので、ご参加ください。
<転載/転送歓迎>
■■■Web評論誌『コーラ』9号のご案内■■■
本誌は〈思想・文化情況の現在形〉を批判的に射抜くという視座に加えて、〈存在の自由〉〈存在の倫理〉を交差させたいと思います。そして複数の 声が交響しあう言語‐身体空間の〈場〉、生成的で流動的な〈場なき場〉の出現に賭けます。賭金は、あなた自身です。
★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html
★Web等での本誌のご紹介も、よろしくお願い申し上げます。
●シリーズ〈倫理の現在形〉●
残念ながら、今号は寄稿者の都合により休載といたします。---------------------------------------------------------
●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
第13章 ラカン三体とパース十体(序)
中原紀生
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-13.html
宇波彰氏は、『記号的理性批判──批判的知性の構築に向けて』の第?部「理論的な領域」に収められた七つの論考群で、パースとラカンとベンヤ ミンの思考を関連づけています。精確に述べると、パースの三つのカテゴリー論のうちの「第一次性」、すなわち「あらゆる綜合と差異化よりも以前にある」もの、いいかえれば言語化できない何かと、ベンヤミンの「純粋言語」、すなわちいかなる表現も表象も担わない言語、したがってわれわれに届かない言語と、ラカンの三領域論のなかの「ル・レエル」、すなわちシンボル化(言語・記号によって表象されること)を拒否するもの、もしくは「特殊な意味での「物」の領域」という三つの概念を、いわば「星座的」(ベンヤミン)ないし「機械状」(ガタリ)に連結して論じているのです。
以下、宇波氏の議論を、主として、(ベンヤミン、ラカンとの関係を軸にパースの思想を主題的に論じた)「弱者の言説」から抜きだし、適宜、(「ラカンのシニフィアンに光あれ!」「アブダクションの閃光」「廣松渉の言語哲学」といった)他の論考での議論を補ったうえで、編集し要約してみます。(以下Webに続く)---------------------------------------------------------
●連載:新・映画館の日々」第9回●
人でなしの恋――『シルマリリオン』論序説
鈴木 薫
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-9.html
J・R・R・トールキンはいまだ発見されていない未来の作家である。『指輪物語』があれだけ評判を取ったのは、何かの間違いだろう。いや、あれに(あるいは映画化されたものに)惹きつけられ、ファンになったというのなら、それはそれでいい。『指輪物語』は確かに「快楽の装置」であって、『シルマリリオン』(邦訳『シルマリルの物語』)を知らなくとも十分に楽しめるものであるから。驚くべきは、少なからぬプロの書き手が、賞賛すべき『指輪物語』の作者トールキンの作であるという理由で、やむをえず(としか思えない)これに言及する際、それが彼らにとっての「快楽の装置」として機能しないため、これは『指輪』のための舞台を準備したものにすぎないと言いくるめて、おのれの不能ぶりを糊塗し、また、自らの理解力のな さを棚に上げて、『シルマリリオン』を“難解”と呼んではばからないことだ。『指輪物語』は実のところ『シルマリリオン』から派生したものであり、いかに長大であれ、また、切り離してそれだけで読めるにせよ、その副産物でしかない。職業的小説家ではなかったトールキンの生涯をかけた“主著”は、どう見ても『シルマリリオン』である。『シルマリリオン』に作者が入念にほどこした仕掛けが見分けられなければ、『シルマリリオン』と『指輪物語』がどう繋がっているのかもわかりようがないはずだ。(以下Webに続く)
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●コラム「コーヒーブレイク」その3●
歌謡「おさななじみ」にみる〈公的記憶の改竄又は無化〉
橋本康介
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-3.html
永六輔は、63年当時に高校生か大学生(つまりは16〜22)である諸君の少年期を拝借し、彼らが自身の近未来から、個人史を振り返える。
そんな設定で、時代・世代を問わず歌える歌を作詞したに違いない。そうだとは思う。
しかし、当時30歳の永が1933年生まれ、歌い手の初代デューク・エイセスが30年代後半生まれの、若いパパ・ママ達であってみれば、聞き手がそこで「作り手の幼少期、初恋、結婚なのだ」として聞いたとしても、それは聞き手の責任ではない。事実、当時誰もがそう聴いたのだ。(以下Webに続く)---------------------------------------------------------
『辺野古の海をまもる人たち』出版記念会
■場所 夢屋LOOP139(桃谷)日時
■12月19日(土)
第1部 座談会 18:30〜20:00
第2部 交流会 20:00〜参加費 2000円
※本一冊と交流会の食事代を含む(ドリンク別)ドリンクは各自カウンターでご注文ください。
1996年、オジィ・オバァたちが米軍基地建設に反対し、辺野古の浜で座り込みを始めました。
2004年、辺野古の海を埋め立てるためのボーリング調査が強行され、同年8月には普天間基地所属の米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落しました。自公政権は軍艦の派遣など、なりふり構わず基地建設を推し進めてきましたが、粘り強い非暴力直接行動によって埋め立てはまだ行われていません。
オジィ・オバァたちが座り込みを始めてから13年、基地建設を止めるための座り込みは1日も休むことなく今日も続けられています。これまでに何人ものオジィ・オバァが基地建設撤回を見届けることなく亡くなっていきました。
そして、多くの新たに辺野古のことを知った人びと現地を訪ね、反対行動に参加してきました。辺野古から地元に帰った人たちは各地で基地建設を止めるための行動を始めています。
「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」も、そのひとつです。
2004年の8月から毎週、大阪駅前で辺野古の基地建設を訴え、3万筆以上の署名を政府に提出しました。
この度、出版される『辺野古の海をまもる人たち――大阪の米軍基地反対行動』(田中佑弥編著、東方出版刊行)は「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」のメンバーのインタビュー集です。どんなひとが、どんなことを考えて、この行動に参加しているのでしょうか?
出版記念会では「大阪行動」代表の松本亜季さん、「大阪行動」メンバーで手づくりのジュゴンぬいぐるみが好評の大森正子さん、大阪行動のチラシをデザインしている韓基大さんによる座談会を開催します(司会:田中佑弥)。
『辺野古の海をまもる人たち』が出版されるこの機会に集まりの場を持ちたいと思います。ぜひ、ご参加ください。
- 作者: 田中佑弥
- 出版社/メーカー: 東方出版
- 発売日: 2009/12/01
- メディア: 単行本
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■夢屋へのアクセス
JR桃谷駅下車。環状線沿いに南方向に歩く(線路の西側)。
高架下に番号が書いてあるので139番まで歩く(5分ぐらい)。
139番の2階が会場なので、1階の入口から入ってください。
大阪市天王寺区勝山4−1−10
TEL.090−4769−0865(夢屋)予約・お問い合わせhenoko_cafeアットyahoo.co.jp
※事前予約なしでも参加できますが、人数把握のため、なるべく予約をお願い致します。