「人文書棚つくり勉強会」構想

京阪神人文書担当者を集めて、情報交換と実践的な棚つくりのための定期的な勉強会を構想しています。メンバーは書店人と版元(営業・編集者)ですが、講師に著者や読者も招聘して棚に反映できるようにしたいと思っています。すでに京都のR出版のT氏や一部の書店人には内諾を得ています。
まずは下記に転載しました、未来社社長・西谷能英氏の呼びかけに、「人文会」の枠を超えて連動できればよいなあと思っています。
と言っても僕は不勉強ですから、世話焼きとして裏方でお手伝いします(笑)。

[未来の窓106]
人文書のジャンル分けというゲーム (西谷能英)

 いま、わたしが所属している専門書出版社十九社の集まりである人文会の企画グループでは、ひとつの大きなプロジェクトが進行中である。昨年五月の総会後から一年間の予定で人文書の中ジャンルの全面的見直しをし、人文書を積極的に売っていこうとする書店にたいして連携し、あるいは働きかけようとする試みがそれである。
 これは、すでに本欄の二〇〇四年一月号の「『人文書のすすめ【III】』の刊行」において、人文書ジャンルの見直しが十年以上なされていないことをわたしが指摘したことに端を発する問題で、会のなかでつねづね課題としてきたことが真剣に受けとめられた結果である。書店店頭を見るにつけ、人文書の現状をなんとかしたいというわたしの危機意識の現われとも言えようし、猫の目のように変わる人文書の最前線にたいしてジャンルという枠組み設定を更新して時代をたえずとらえ直したいという編集者的欲望の現われかもしれない。
 というのも、書店店頭における人文書の棚展開とは、わたしの持論では「ナマモノ」の世界と同じであり、鮮度が勝負を決するのであって、十年一日のごとく同じような棚展開、同じようなジャンル分けをしているようでは読者から見限られてしまうのは必定だからである。
 人文書とは、学問の地道な研究の成果や文化の底深い脈流を背景に、時代の要請のなかでさまざまな問いに答えようとするものであり、そこには当然のことながらさまざまな視角や潮流や方法論というものが同時に存在しうる。これらを基本的な流れに切り分け、そこに中心軸を見出す(書店店頭で言えば、売れ線を発見する)ことが人文書ジャンルのたえざる再構築(書店で言えば、棚展開)であって、そこでは時代の空気に敏感に反応し、時代の先を見越していく知的想像力にあふれた著者や書物が必要とされる。編集者や書店の棚担当者は、本をつくる側であれ出版された本を棚に配置する側であれ、そうした流れを意識しながら「編集」するという共通の立場の人間となるわけである。
 とりわけ書店の人文書担当者とは、たえず変動する人文書というナマモノの取捨選択(注文するかしないか)や棚構成(どう並べるか)をつうじて、「編集」した結果をただちに知ることができるという意味で、もっとも実践的で現実的な知のエージェントたるべきなのである。人文書の棚展開とは、ある意味では基本書と考えられる書籍群を「布石」とするゲームに似ている。これがうまく機能するかどうかは、その基本書の選択が正しいかどうか、その基本書の選択が正しいとしたらその周辺に集める書籍群の選択と配置が有効かどうか、という戦略と戦術のパズルゲームだからでもある。
 その意味でも、編集者はこれら書店エージェントの日々実践されるゲームの結果を学習する必要があるとともに、今度はみずからもそのゲームに参加させてもらうことをつうじて「営業」的にみずからの編集感覚を磨きあげる努力が必要になる。また書店の人文書担当者はこれら編集者の編集感覚と情報をもとにこの編集的パズルゲーム(棚展開)をより高度なものにしていくことで、よりよい結果を生み出してもらうことが期待される。こんな理想的な相互交流ができたらいいな、とわたしはつねづね考えているが、残念ながらなかなかできていないというのが現状である。とはいえ、この間、何人かの書店人に協力を依頼し、快く引き受けてもらえたので、この中ジャンルの見直しという作業をとりあえず見通しのつくところまでは実現したいと思っている次第である。
 さて、そういうわけで、人文書の既成ジャンルの見直しとして「哲学・思想」「宗教」「心理」「社会」「教育」「歴史」の各ジャンルの検討がとりあえず終了し、残るは以前「批評・評論」として設定したもっとも「ナマモノ」的なジャンルの再構築である。今回はこれを「現代の批評・評論」として設定し直すことにした。「評論」というネーミングには文芸評論的な意味あいが強く、なんとなく「売れない」という印象があるとの意見をくみ入れたのと、実際にここに集約されるのは既成の各ジャンルに定着し組み込まれる以前の、現代的な批評的主題群なので「現代」を強調する必要があるからである。
 そしてわたしがこのジャンルの継続に力を入れたいのは、これらの主題やそれに即した書籍群こそがもっとも現代的でホットな問題を提起しており、また話題にもなり、したがって書店の人文書売り場でもっとも売れるはずだからである。すこし前なら〈現代思想〉とでも呼ばれたであろうこれらの書籍群こそが、さまざまにジャンルを横断しながら転成し新しい切り口を刻みつけており、もっとも豊かな可能性とそれゆえの危うさを同時に示しつつ人文書の中核を担っているのである。
 それともうひとつこのジャンルを設定する理由としては、既成の人文六ジャンルの枠組みでは、これまではずされるのが常だった社会科学や自然科学、文学等のジャンルのなかから広く人文書としても読まれうる書籍群を組み込むことが可能になるからである。たとえば柄谷行人のように文学から出発して哲学的な主題に取り組むようになった批評家の全体を人文書の中核に据えることが可能になる。むしろ、傍流にされがちだった他ジャンルから越境してきた書籍のなかにも、現在の人文書の中心がありうることを、このことは示している。文芸批評や詩論の一部がたんに文学書であるだけでなく、人文書としても読まれるべきであるのはいまや当然のことである。
「現代の批評・評論」として選択的に取り出された書籍群がもつアクチュアリティには、それだけに可能性と同時に限界もある。それこそが「ナマモノ」たるゆえんなのだが、この「ナマモノ」の鮮度を保つためにはたえざるメンテナンスが必要なのはもはや言うまでもないだろう。その第一歩だけは近いうちに実現しておきたいと思っている。

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