「鶴見俊輔論」の続編として

http://blog.livedoor.jp/pipihime/archives/50075074.html
<原田さんがここで指摘されている「時間感覚」、「日付のある判断」、「過去がいつまでも決済できないものとして現在を呪縛する」ということがらは、戦争責任・戦後補償問題を考える大きなヒントになると思う。>というpip姫さまの言葉を受けて、次回(いつの次回になるかなあ?)には、鶴見の戦争責任論を検討する予定です。
昨日、大阪市中央図書館で借りてきた『鶴見俊輔集9』所収の「戦争責任の問題」を帰りの地下鉄車内でパラパラ拾い読みしていたら、下記の記述が目にとまったのでメモしておく。

戦争責任の意識を深める方法として、私の考えているのは、長尾和郎の方法とは反対に、なるべく同世代のもののむすびつけをさけ、ちがう世代、ちがう社会分野のものの結びつきをとおして、戦争についての体験のちがいをくらべあいながら、それらをつらぬく共通の戦争責任の意識に近づく努力を、くりかえすことだ。たえざるディスコミュニケーションの条件を新たにつくっては、その中でコミュニケーションを試みるということが、戦争責任の問題については、とくに必要なのである。(『鶴見俊輔集9』p162〜p163、筑摩書房

引用箇所で、「結びつき」を漢字とひらがなで書き分けているのは、たぶん鶴見の意図的な区別であろう。
「たえざるディスコミュニケーションの条件を新たにつくっては、その中でコミュニケーションを試みるということが」というのは、如何にも鶴見らしい記号学の視点だ(鶴見は「記号の会」というサークルを主宰していた)。
また鶴見は岩波書店の<哲学叢書>で『象徴形式』を上梓するはずだったが、刊行されていないと思う。この叢書は坂本賢三の『機械の現象学』とか中村雄二郎の『感性の覚醒』、山口昌男の『文化と両義性』、竹内芳郎『国家と文明』など名作を出したシリーズであったが、巻末の予告にある書名は未刊のものが半分くらいあるようだ。

因みに、来月の「哲学的腹ぺこ塾」では「戦争責任/戦後責任」をテーマにします。ご案内はこちら。→http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
それから、「カルチャー・レヴュー」52号に書いた「責任論の位相」というエッセイは、こちらです。→http://kujronekob.exblog.jp/1432704/

★追加記述★このブログは過去の記述でも適宜、追加/削除補正されます。いわば現在進行形であり決定稿ではありませんので、ご注意ください。
★追加記述★先ほど久方ぶりに、野原燐さんのブログを覗いたら、戦争責任論の続きで岡野八代のテクストへの言及が興味深いのでトラックバックしておきます。この野原さんのサイトで、彼からの刺激を受けながら僕も共同討議をしましたので、ご覧ください。→http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050918